第6話

 掃除が一通り片付いた役宅で、私が出来るのはしいて言えば簡単な食事作りぐらいだ。暴漢に襲われそうになった時からシモンは私にちょっと過保護で、朝の市場に行くのも身分を隠して着いてくるほどだった。お酒は溜まっていた瓶の数ほど飲まなくて、だから朝の目覚めは良いらしい。ちょっと身体を動かしておくと朝からの鍛錬にも良い、と言って、ローブを被って着いてくる。何が食べたい、と訊くと、何が作れる、と聞き返される。うーんと考え込んでしまう。朝。朝のメニュー。


「パン買って、この間買ったフライパンで卵焼いて、あとトマトとかレタスで野菜を添えて、とかかなあ。夕食はどうするの? 家で食べる? それとも会食とかあるかな」

「会食は昼だな。士官学校を卒業して以来マトモに朝食を食った覚えが無いから、朝はそれで良い。夜は何にする? 荷物は持つから、好きなものを買うと良い」

「昼はしっかり食べるだろうし、夜は重たくなり過ぎないように鶏肉とかが良いかな。残ったレタスやトマトと一緒にバター塗ったパンに挟んでサンドイッチにしたらどうだろ。ちょっと軽すぎるかな?」

「いや、鶏肉は筋肉にも良いと教わっているから、それで良い。お前の昼食は?」

「テキトーに残りもの食べれば大丈夫。って言うと主婦みたいだな、私。あはは」

「矢栖理は俺の主婦になってくれるのか?」

「往来で何言っとるんじゃ」

「大切な事だぞ」


 ちょっと低い声で拗ねたように言われ、ぷっと笑いが出てしまう。でも強いんだよなあこの人は、と思うと、ギャップにまたあの時を思い出してちょっと頭に血が上ってしまった。いかんいかん。主婦どころか乙女じゃないか。いや別に私は確かに女の子だけど、こんな人に情を向けられることは考えられない程度には現実的な夢見ない乙女でもある。あくまでお手伝いさん、と言う位置に自分を置いておかないと、変な勘違いをしてしまうだろう。それはいけない。

 とりあえずローズマリーとベーコンとじゃがいもを買おう。ローズマリーポテトにすれば、お酒のおつまみにもなる。


 と言うか、私が来てから二・三日の間はお酒も嗜んでいたみたいだけれど、それを止めたのは何でなんだろう。瓶ゴミを収集してもらうのが恥ずかしくでもなったのだろうか。鍵を掛けない書斎や寝室、晩酌の跡は全く見付からない。下手に隠されると洗い物が面倒なんだけれど、不揃いのグラスたちにも触れた気配はなかった。楽だから良いと言えば良い。

 でもそこまでこの人の生活に自分が食い込んで良いものなのかと自問してしまうのも実際だ。今日は天気も良いし庭の手入れでもしようか、でもそれでまた風の気まぐれやらで元居た世界にぶっ飛ばされても、こっちでの未練が残ってしまう。とは言え手を付け始めたばかりの庭は草いじりの好きな私にはお気に入りの場所だ。爪の間に泥が入らないように軍手も買った。それらは玄関ホールの小さなロッカーにぎゅうぎゅう詰めになっている。それだけ、私はこの人の屋敷に――心に。食い込んでいる。


 いけない兆候だよなあ。思うもののどうせ帰れる兆しなんてないのだから、この異世界を楽しんでしまえとオプティミスティックな自分もいる。なんでも楽しんで乗り越えてしまえたらそれはとても素敵な事だ。いつか帰る事になったら、なんて、今のところ気配もないのだからそわそわしていても仕方ない。もう私はだぶだぶのエプロンを掛ける事にも、手洗いで洗濯物を片付けることも慣れつつあるのだ。このままどーんっと腰を据えても良いのかな、なんて、いるのかいないのか分からない神様に問うてみたりもする。勿論返事はない。

 買い物を終わらせてはぐれないように手を繋いで帰る道は照れくさい。でもこっちに来てから十日、やっぱり、私は慣れてきている。お父さんやお母さんやお祖母ちゃんの顔も、思い出すことなく。薄情な娘だ、私は。このくらい薄情だったらシモンの事もすぐ忘れられちゃうのかな。


 家に帰って、生モノは氷の置いてある冷蔵庫へ、使うものはさっさと出して、シモンには出仕の準備をさせる。この世界の冷蔵庫は私がいた世界のより古くて、朝に氷を買ってきて中を冷やし、夜までそれを持たせる、と言うものだった。バターを引いたフライパンに塩とコショウを入れ溶いた卵を入れ、ちょっと固まったらぐしゃぐしゃとフライ返しで混ぜて行く。良い匂いのするそれはスクランブルエッグだ。水をちょっと出してからレタスを洗い、トマトも洗う。千切ったレタスと切ったトマトを並べて卵を寄せれば、清く正しい朝ごはんプレートの出来上がりだ。オーブンでちょっと温めてあったバターロールを籠に入れれば、シモンの朝食はこれでおしまい。私はパンをつまみ食いして、トレーにそれらと搾りたてのオレンジジュースを乗せて食堂に向かう。

 大きなテーブルに掛かったクロスも埃塗れだったのを私が洗ったものだ。参ったと言わせた白いそれの上にトレイから下ろしたプレートとパン籠を置くと、軍服姿のシモンがカツコツとブーツを鳴らしながら二階の自室から降りてくる。ちなみに軍用品は専属のクリーニング屋さんがあるとかで、そっちはどうにかしていたらしい。上っ面は作っておくことが出来るのだけれど、ゴミはゴミ箱に、が出来ないんじゃただの生活破綻者だ。大人じゃない。まあ十九歳なんて働いてるか学校に行ってるか境目の年なんだから、仕方ないのかもしれないけれど。だからこそ私のような生活支援者が必要なのかも。


 必要とされるのは嬉しい事だ。大きな屋敷も庭も、好きにしろと言われれば俄然張り切るのが私である。だから今は楽しい――楽しい、のかな? やっぱり私は薄情なんだろうなあ。思いながらシモンの食事中に寝室に行ってまだ少し暖かい羽毛布団を干し、ついでに自分の毛布も干す。布団叩き代わりのステッキでパンパン叩くと、埃が宙に舞った。本当はベッドごと干したいぐらいだけど、非力な私にそれは不可能だし、シモンにだって大きなそれは動かせないだろう。

 仕方ないけれどせめて掛布団だけは毎日干す。それから食堂に戻れば、シモンはジュースを飲み干した後のようだった。プレートは綺麗に食べつくされ、パンは一個残っているだけ、よしっ、と内心ガッツポーズをしながら、それを片付ける。キッチンから戻れば、玄関でシモンは剣を佩き外套を付けているところだった。用意していたハンカチを胸に差し込めば、見掛けは立派な騎士団長様。


「よしっ」

「よしって。お前は俺の母親か」

「お母さんどんな人だったの?」

「……知らない。物心つく頃にはいなかった。父は騎士だったが戦いで死んだ。もっともその戦争も終わって久しいが」

「平和なのは良い事よー。よしよし、ならば私が母親の用に尻を叩いて育ててあげよう」

「十分育っているんだが」

 聞こえない。耳を塞いであーあーあーと返せば、どっちが育っていないんだ、とくつくつ笑われる。精神年齢的には似たようなもんだろう。歳の差だってたったの四つ、大きいけれど開きすぎてもいない。ばさっと外套を翻したシモンは、登城用に待っていた馬車で城に向かって行く。

「行ってらっしゃい、シモン」

「行ってきます。矢栖理」

 ぽん、と頭に手を置かれて、子供扱いすんなと内心で思いながら見送る。

 さて、今日の仕事は庭だ。くらっと来たのを誤魔化しながら、私は買ってもらった庭帚を出しに大広間に向かった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る