第5話

「すさまじいな、お前は……」

 約束の三日後、干した絨毯を回収して改めて部屋に敷き詰めた所で、シモンは呆れたようにぱちくりと目を開けた。ただの箒水拭きに絨毯・布団干しと言う特に手も掛かっていない掃除だとしても、あの汚屋敷住まいに比べたら天と地ほどの差があるんだろう。えっへん、と張った胸には発掘したエプロンが掛かっている。もっともちょっと大きくてお腹の所で弛んでいるんだけど、使用人には十分だろう。


「さてと、じゃあ次は市場の場所教えてくださいな。店屋物ばっかりだと栄養偏って騎士団長なんてやってられなくなっちゃいますよ。簡単なものなら作れますけど、まずは調査しないと。スパイスやハーブの類と、肉と魚と、あとやっぱりモップ欲しいし布巾とかも足りないから雑貨屋さんにも寄って欲しいな。徒歩の距離にあります? 包丁も欲しいんですよね。ほんっとあのキッチン何にも無いんだから」

「ないこともないが……俺自身がそう言った下々の民に頼るのは面目が立たんと言うか……」

「あの部屋思い出してそう言えますか」

「うっ」

「下々の必需品を買いに行くんですよ、ご・しゅ・じ・ん・さ・ま! あくまであなたはただの案内役です。大体あの酒瓶の数じゃ少なくとも酒場では名の知れた顔なんじゃないですか?」

 くつくつつっと笑って見せると、居心地悪そうな顔がうーっと唸る。暫く口をもゅもゅさせてから、腹をくくったように大きな溜息を吐いた。

「分かった、一緒に行く。ただし俺はローブで顔を隠すぞ」

「はいはい。お金だけ出してもらえればそれで結構ですよ」

「それはそれで傷つくな……」

「我儘なご主人だなー」

「シモンで良い。矢栖理。どうやら俺はお前が必要らしい」

 珍しく柔らかい言い方をされて、頬がぽっと赤くなる。ええい、訊いた話じゃシモンは十九歳、私より四つ年上だ。十代にとっての一年は長い。それが四つも重なっていれば、年上感が増して当然だ。解ってる、解ってるのになんとなく期待してしまう。馬鹿げた事なのに。


 自然に手をつないで歩くと、珍しくシモンは手袋をしていないから、ちょっと体温が移ってそれにもどきりとした。剣だけやってたって言うだけに、マメのある固い手だ。でも歩幅はそれほど感じないな、と思うと、合わせてくれているのに気付く。基本的には紳士なんだな、誰かにもやったのかな、と思うと、ちょっとだけ悔しくなった。ほんのちょっと。あんなお屋敷で暮らしてるから感覚が狂っているんだろう。私は彼にとって下々の庶民だ。守るべき国民ですらない。それはちょっと寂しいな、と思っていると、あそこだ、と言われる。


 ストリート一つ使った市場だ。今はもう夕方だって言うのに全然さびれていない。王都だからなのか、それにしても、結構な熱気だった。そして私の世界と同じ調味料やハーブ、スパイスや野菜が並んでいることにホッとする。まずは肉かな。好き嫌いは野菜の方が多いだろうし。

「何か食べられないものってあります? 好き嫌いでなく具合が悪くなる方で」

「いや、あまり自分で食に気を使ったことが無いから、何でも一度は食べられると思う」

「それは結構ですね、さーてとじゃあロールキャベツでも作るか。おじさん、これとこれとこれお願いします」

「はいよ! お嬢ちゃん見掛けない顔だねえ、最近かい? 王都に来たのは」

「はい、三日目になります」

「じゃ、おじさんがオマケしてやろう。良い夜を!」

 けらけら笑うおじさんに笑い返し、ありがとう、と去って行く。あまり店員さんとの会話は出来ない性質だったはずなのに、何かこっちに来てからはタガが外れたように話せた。多分この三日間の会話相手がシモンに限定されていた部分もあるかと思う。でも何と言うのか、あけすけに言って、開き直った部分が多い。受験も勉強もなく、趣味に近い掃除をしていたからだろう。洗濯は流石に外注で、自分で洗うのなんて殆ど無かったけど。さすがに洗濯機や電気の冷蔵庫は発明されていない。シモンも魔法は苦手らしいから、多分毎日この市場に来ることになるだろう。新鮮さを求めて。お魚は流石に売ってなかったから、明日は朝一番で乗り込んでみよう。海魚はなくても川魚ぐらいはいると祈って。

 肉って結構楽に手に入るからなー。でもそっちに偏っちゃダメ。栄養バランス、緑黄色野菜、食物繊維。家庭科は結構好きだった方だ。


 これまた発掘品のリュックに食べ物を詰めたら、次は雑貨屋さんだった。必要なものは大体揃ってるし、お手頃価格で売っている。私の着替えなんかも買わなきゃなあ、と思っているとシモンが不意に私の後ろから前に出て来た。どうしたのかと思うと、突然どんっと突き飛ばされる。と同時に、シモンは剣を抜いていた。そしてそれは、ナイフとぶつかる。私のお腹の辺りを狙っていた、ナイフに。

「買い込みしてんならよぉ……金持ってるよな嬢ちゃんよぉ。ちょっとこっちに渡してくれれば良いんだぜ? こっちの男だってそんな長物で市場の真ん中立ち回れねえだろ?」

 雑貨屋から出た所で、酔っ払いめいた男が、私を狙っていた。ゾッとすると腰が砕けそうだったけれど、それより問題なのはシモンだ。こんな往来で、両手剣は振り回せない。と、響いたのは鼻で笑う声だ。フン。

「そうでもない」

「何?」

「剣は――」


 すっと一足引いて場を作ったシモンは、

 そのまま剣をずいっと押し出して暴漢の肩を、突いた。


「切る事だけが能じゃないんでな」

 初めて見たその騎士団長の貫禄に、胸がぎゅっとした。


「これ、俺の財布だ!」

「あたしのポーチ!」

 膝を付いた暴漢はぼとぼとと戦利品を落としていく。江戸時代に流行った『巾着切り』ってやつだったのかもしれない。血払いして剣を鞘に納めたシモンは、私の方を向く。そしてその顔には、惑いが生まれていた。初めての表情。三日間、私は誰と暮らしていたのかを思い知る。

「大丈夫か? その、お前の方が危なそうだったから――言い訳だな、一気に金を使うなと言っておくべきだった。すまない」

「だ……大丈夫、だよ、それにしてもシモンってば本当に強いんだねぇ……びっくりして、まだ、ドキドキしてる」

 あはは、とわざとらしい笑いを浮かべるけれど、シモンはそれに気づいて、私をぎゅっと抱きしめる。

 顔が真っ赤になって、そんでもって、今度こそ私は膝を付いた。

「矢栖理!?」

「いや……はは、ちょっと、びっくり、したと言うか、えっと」


 人生経験豊富とは言えない十五歳に、これはちょっと、とんでもなくハードな体験である。

 やって来た憲兵に暴漢を引き渡し、私はやっと治った腰で立ち上がる。ふらふらすると腰を抱かれた。恥ずかしいけれどそうでもしないとまっすぐ歩けなさそうなのが今の私だ。これで今夜キッチンに立てるのか、心配になってしまうほど。だけど私を支える腕は、こんなにも力強い。

「もう大丈夫だ。な?」

 耳元でささやかれ、腰を抱く力はより強くなる。

 やばいと思った。

 こんなに優しくされたら。

 恋に、落ちそう。


 ――もう落ちているのかも、知れなかった。

 そう。

 鏑矢は、放たれていた。

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