声
子供の頃に一度、奇妙な出来事に遭遇した。淀んだ雲の広がる週末のことだ。
ぽつぽつと雨の降り出す通学路を走っていたら、不意に足から力が抜け、ぐらりと視界が揺らいだ。何故、と思った時には既にバランスを崩していて、僕はろくに受け身も取れず、前のめりに倒れ込んだ。
必死に起き上がろうとしていると、背後から足音が聞こえてきた。ひたひたと湿った音を響かせて、それは倒れ伏す僕の背に、声をかける。
「もし、もしもし」
湿気った、女の声だった。僕は薄ら寒い恐怖を覚えたが、逃げることはおろか身じろぎすらもできない。体が、全く言う事を聞かなかった。
「もしもし」
女が囁きかける。
そういえば──三、四十年ほど前に、まだ田んぼだったこの通りの周辺で、怪死事件が頻発していたと、祖母が話していたことを思い出した。
「もしもし──もし」
返事をしてはならないと、直感で悟った。僕はなんとか体を起こそうと、腕に力を込める。
するりと、腐った肉の臭いが鼻を掠めた。反射的に息を止める。
数秒の沈黙があった。
「──ああ、返事がない。まだ、か」
それまでもしもしとしか喋らなかった声が、不意にぽつりと呟く。すると、ふっと体が軽くなった。慌てて、起き上がる。
恐怖で手足が震え、呼吸がおかしい。僕はそのまま、後ろも見ずに家へと走った。
それから数日が過ぎた頃、通学路で突然倒れて亡くなったという人の話を聞いて、ぞっとした。
関連性はわからないが、自然とあの声を思い出した。あれは多分、会話をしてはいけない存在なんだ。一度でも言葉を交わせば、戻れなくなる。
それ以上詮索することもないまま、僕は歳を重ねて、やがて成人した。今も、たまにあの道周辺を通る機会がある。だがその通りだけは、なるべく避けるようにと心がけていた。
あの湿った足音と声が、今も耳にこびりついて離れない。
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