第17話 ロランの家名
「ラフォレ様、誰かがいらっしゃったようです」
扉がノックされる音でやっと顔を上げたマルティナは、ノック音にも気づいていない様子のラフォレに声を掛けた。
するとラフォレもやっと書物から顔を上げて、扉に視線を向ける。
「ラフォレ様、突然の訪問、大変失礼いたします。政務部の官吏であるロランと」
「ナディアでございます」
「少しお聞きしたいことがございまして、お時間を取っていただいてもよろしいでしょうか」
二人の声が扉越しにくぐもって聞こえると、マルティナは慌てた様子で座っていた椅子から立ち上がった。
「私の上司と同僚です。もしかしたら、何か職務上のトラブルでも発生したのかもしれません。扉を開けてもいいでしょうか?」
「別に構わん。そこのソファーを使うと良い」
「ありがとうございます」
――もしかして、午後は調査隊の仕事を優先していいとはいえ、一度は戻った方が良かったのかな。
「今開けますね!」
そう声をかけてマルティナが扉を開くと、マルティナの姿を視界に入れたロランとナディアは、安堵に頬を緩ませ力が抜けたような声を出した。
「マルティナ……無事だったか」
「良かったわ。心配したのよ」
そんな二人の様子を見て、マルティナは不思議そうに首を傾げる。
「心配、ですか?」
「……おい、お前。まさか気づいていないのか? 今が何時なのか時計を見ろ!」
ロランにジロリと睨まれ、慌てて内ポケットに仕舞っていた時計を取り出すと、マルティナが予想していたものよりも数時間は経過した時間が示されていた。
「もう、夜?」
マルティナは愕然とした表情で時計をしばらく見つめ、恐る恐るロランの顔を見上げた。するとそこにいたのは、爆発寸前のロランだ。
「あっ、あの、本当に申し訳ありません。書物を読んでいたら時間の確認を忘れていまして……」
――本を読むと時間の感覚が曖昧になるとは思っていたけど、まさかここまでとは。自分で自分が信じられない。
「俺らはマルティナに何かあったんじゃないかと思って、心配して走り回ってたんだぞ!」
「もうっ、マルティナ、あなたは本に夢中になりすぎだわ!」
二人にほぼ同時に怒られ、マルティナは首をすくめて項垂れた。
「本当にごめんなさい……心配してくれてありがとうございます。ナディアもありがとう」
「はぁ……まあ、何もなかったならいい」
そこで三人のやりとりを聞いていたラフォレが椅子から立ち上がり、三人の下に向かってロランとナディアに視線を向けた。
「私も時間を見ていなかった。君たちの仲間を長時間借りてしまってすまないな」
「いえ、こちらこそマルティナがお世話になりました。また、騒いでしまって申し訳ございません」
「突然の訪問も失礼いたしました」
「気にすることはない。――ん? もしかして君は、ロランか?」
目を細めるようにしてラフォレがロランの顔をじっと見つめてから発したその言葉に、ロランは微妙な表情で少しだけ逡巡してから、すぐに頭を下げた。
「……はい。お祖父様、お久しぶりです」
その言葉に驚いたのは、マルティナとナディアだ。声こそ出さなかったものの、瞳を見開いてロランとラフォレに交互に視線を向けている。
「やはりそうか、久しいな」
「お祖父様はご健勝のご様子、何よりでございます」
「うむ、私は日々研究に勤しんでいる。皆は元気か? そういえば、もう何年も家には帰っていないな」
「何年ではなく、十年以上になるかと」
「もうそんなになるか?」
研究に人生を捧げているラフォレは、子爵位を得ていた時代にも研究にかかりきりで家のことは蔑ろにしていたが、息子に家督を譲ってからは家を出たも同然なほど、研究室に泊まり込んでいるのだ。
ロランはそんなラフォレにもはやどう接して良いのか分からず、基本的には距離を取るという選択肢を選んでいる。
「今度時間が取れたら久しぶりに帰ろう。ロランも自由にこの研究室へ遊びに来ると良い」
「……はい。ありがとうございます。では今夜はマルティナを連れ帰ってもいいでしょうか。すでに夕食も終わる時間ですので」
あまり話を引き延ばしたくないのか、マルティナの肩に手を置きながらそう言ったロランに、ラフォレはロランの心情に気付いていないのか笑顔で頷いた。
「そうだな。マルティナ、また時間をとってここに来ると良い。研究の手助けを頼むぞ」
「はい。本日は貴重な書物を読ませていただき、本当にありがとうございました。これからもよろしくお願いします」
そうしてラフォレの研究室を後にした三人は静かに足を進め、研究室から十分に離れたところでマルティナが口を開いた。
「ロランさんは、ラフォレ子爵家の方だったんですね」
「私も知らなかったわ。あんなに凄い方を祖父に持っているなんて」
「俺は家名を名乗ることはほとんどないからな、知らないやつが大半だ。お祖父様関連の仕事を振られても困るだろ?」
そう言ったロランは久しぶりに会えた祖父に嬉しそうには見えず、マルティナは躊躇いつつもロランの顔を見上げながら問いかけた。
「ロランさんはラフォレ様と、あんまり仲良くしたくないんですか?」
「いや、そういうわけじゃないんだけどな……接することがなさすぎて、どんな態度を取ればいいのか分からないんだ。それにお祖父様はラフォレ侯爵家に生まれて、次男としてラフォレ子爵位を得ただろ? だからうちの子爵家は侯爵家の分家みたいなもので、ただ侯爵家の人たちは自由すぎるお祖父様をあまりよく思っていなくて。だからうちも侯爵家とはほとんど接点がなく、これ以上関係を悪化させないようにお祖父様とも積極的に関わろうとしてなくてな……」
複雑な家庭事情を吐露するロランの表情も、また複雑そうに歪められていた。
マルティナはナディアの家庭事情を聞いた時のように、どう言葉をかければ良いのか分からず眉を下げる。
するとそんなマルティナの表情を見たロランは、重くなった空気を吹き飛ばすように笑みを浮かべ、マルティナの頭を少し強めに撫でた。
「まあ、そんなに気にすることはない。別に仲が悪いわけでもないからな。それよりもマルティナ、これからはもっと時間に気をつけろよ」
「はい。それは本当に反省してます……」
「マルティナは時間になると、鐘が鳴るような時計を持っていた方が良いのではないかしら。私が一つ持っているから貸すわよ」
「ナディア……本当にありがとう。借りてもいい? お金が貯まったら自分で買うから、それまで貸してもらえるとありがたいな」
申し訳なさそうな表情のマルティナに、ナディアは笑顔で頷いてから頬に手を当てた。
「ではお金が貯まった時には、一緒に買い物に出かけましょうか。おすすめのお店があるのよ」
「いいの? それ、凄く楽しみかも」
今度は明るい笑顔になったマルティナに、ナディアとロランも釣られて頬を緩めた。
そうして三人は共に寮へと戻り、マルティナは夕食を食べ損ねたので非常食として保管していたお菓子を食べ、明日の朝食を楽しみに眠りについた。
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