第6話 月夜の差し入れ
「寒ぅっ……あー……腹減った……」
日が完全に落ちて青い半月が漆黒の闇に浮かぶ頃になると、春先とは言え外は相当に気温が落ちて冷え込む。
いくら夕方に新しい藁を買い、荷台の床に敷き詰めてその上に毛布などを敷いてみたとしても、夜風が時折容赦なく吹き込む馬車の荷台においては単なる気休めにしかならない。
フリトが藁で作った即席の寝台の上で小さく蹲りながら震えていると、腹の方で蟲が鳴く声がした。
食べ物は山のように目の前にあるが、それは明日から始まる旅に備えた物。一人当たりの分量を計算した上で買い集めた物なのだから、今ここで手を出すわけにはいかない。
もしここで手を出してしまえば、きっとグドたちが、この宿の主人や、夕暮れに街ですれ違い自分を見て陰で冷ややかな眼差しを向けていた人々と同じ顔をするだろうことは眼に見えていたからだ。
今の今までの彼であれば、そんなことなど考えもせず、きっと目の前にある食料を手元にくすね、そのまま姿を消してしまっていただろう。所詮自分は誰からも疎まれる存在なのだから、信用したそちらが悪いのだと言わんばかりに。
何も知らなかったことに付け込んだようで後味が悪い気はしたが、それはお互い様ではないか、という思いもあった。
しかし、今のフリトは、ただ空腹と冷たい夜風に耐えながら震えるだけだ。氷のように冷えてしまった掌を擦りわせても大したぬくもりは得られない。
乾いた掌を擦り合わせる音の狭間に浮かぶのは、自分のことを何も知らず当たり前のように寝床を用意し続けてきてくれた彼らのことだ。特に、自分を必要だと言ってくれたグドの姿が。
グドは、自分が赤眼だと呼ばれていることを知らなかったようだ。だからこそ、自分に顔を覆うような布を取れとしつこく言ってきたのだろう。
愚かで世間知らずな奴だ……フリトはそう、彼の呑気さを思い鼻で嗤う。ああ、やっぱり自分は彼らとは住む世界が違うのだな、と。
どうして自分がいままでザングのような役人に追われながらも違法と言われるような商売で食いつないできたのかなんて、きっと考えたこともないんだろう。そのおめでたい頭が腹立たしく呆れながらも、憎めないのは、彼らにずっと人並みに扱われてきたからだろうか。
わからない。そうまでして自分が彼らに、特にグドに必要とされる意味が。自分なんて所詮は――過ぎった考えにフリトは独りひっそりと笑う。
ふと、頭を向けている荷台の入り口辺りに何かの気配を感じ、さっと身構えつつ目線を送ると……月明かりに伸びた長い影が見えた。
宿に闖入せんとする不審者か、あるいは馬車荒らしか……じっと目線を逸らすことなく睨むように見つめていると、「……そんな怖い顔しないで下さいよ、私です」と、困ったように苦笑する声がした。
影の作った闇にようやく眼が慣れてきて改めてその姿をよく見ると、穏やかな紫の瞳がこちらを見つめていた。
「……ザング? こんなとこで何してんの?」
「月が綺麗なんでね……どうです、一杯」
そう言いながらザングは荷台の中によじ登ってき、手にしていた麻袋から葡萄酒の入った小瓶と、
突然の訪問と思いがけない手土産に、フリトが驚いた顔をして正面に座ったザングを見ると、「どうぞ」と、言うように手でそれらを食すように促してくる。「何も食べてないかと思って。毒は入ってませんよ」と、言葉も付け加えて。
その言葉をきっかけにするように、フリトは、はじめは恐る恐る、やがてがつがつと麺麭や乾酪を頬張り始めた。
促されるまでは手土産とザングを交互に睨みつけながら警戒心を剥き出しにしていたのに、よほど空腹であったのだろう、フリトは黙々と次々とザングの手土産たちを平らげていった。
その姿にザングは安堵したように小さく溜息をつき、魔術で掌の中に小さな火種を起こしながら葡萄酒の入った小瓶を抱く。
「なにしてんの?」
「葡萄酒を温めてるんです。冷えた身体には利きますよ」
「……エライ親切なんだね」
「まぁ……お詫びも兼ねてますから」
「お詫び? もしかして、さっきの?」
「まさかあんな差別的だとは知らなくて……」
「べつに……いつものことだよ。残飯投げつけられなかっただけでも全然マシだし。ザングなら知ってるでしょ? 俺があんなこと言われてる理由って」
「まぁ、少しは……でも、だからって……」
「仕方ないよ、俺が調子に乗って顔なんて出してたのが悪いんだし……」と、ザングの言葉を断ち切るように言ったきり、フリトは口を噤む。
ザングの影がかかってよく読み取れないフリトの表情は、何の感情も映し出していないようにも見えた。淡々とした口調と表情はこれまで彼が受けてきた屈辱やそれによる傷みなどを物語っているようにも。
職業柄、捕獲したり、その予定であったりする罪人の身上書等を作成することが多かったザングは、フリトの身の上の話――赤眼と呼ばれる所以を、荒方ではあるが知っている。
しかしまさか目の前であからさまな差別的な扱いをされるとまでは思い至っておらず、フリトが無情な扱いを受けることとなってしまった。その詫びを兼ねての手土産であったが、それは逆に彼を傷つけた可能性も考えられる。
黙り込んでしまって程なくして、ザングが簡単な術で温めていた葡萄酒がやわらかな酒気の香りを漂わせ始めた。
ザングは温かなそれを馬車の中に置いていた木製の茶碗のひとつに注ぎ分け、フリトに手渡す。
あたたかな湯呑を受取り、フリトはそっと一口啜った。程よく温まった葡萄酒が冷え切っていたフリトの身体を温めていき、ふわりと口元を綻ばせる。「ホントだ、利くね」と、ザングに微笑む。
月明かりの下でようやく解かれた硬い表情と微笑みに、ザングもまた安堵の吐息とともに笑った。少なくとも、自分の手土産は拒まれていないと思えたからだ。
「なんで、ザングは仕事捨ててまで月の城に行く話乗ったの? 役人の下請けなんだからさ、それなりに……」
「そう思うでしょうけど、それはきちんとした依頼を受けている場合ですよ。大方はよくてもそういうものの半分ぐらいですね」
「ふぅん……ザングはそうじゃなかったんだ?」
「えぇ、まともに役人に下請けを出されても、それこそ小銭ほどの報酬しか頂けませんからね。まぁ、だからと言っても、私の場合でも役人報酬の半分もあればいい方ですから」
「割に合わないね、なんか」
「っていうのもありますけど……まぁ、単純にこっちの方が面白そうですから」
「俺みたいの追っかけまわすより?」
「そういうことです」
青い月がゆったりとした明かりで幌馬車の中の二人を照らし包む。温められ甘い香りを漂わせ始めた葡萄酒が、冷え切った身体を心地よく温めていく。辺りは騒々しい笑い声や音楽、何かがひっくり返ったり割れたりするような音でひどく賑わっている。
賑やかな町灯かりの奥にはひっそりとそれらを見下ろすようにそびえる黒い尖った影がぼんやりと見えている。灯かりやぬくもりを寄せ付けないような冷徹な空気を纏うそこが、これから彼らが目指す所だ。
ふもとには更に闇の色を深くした鬱蒼とした森が広がっていて、時折小さく不気味な鳴き声が聞こえてくるようだ。それが獣のものなのかそうでないのかはあまり考えたくないことだった。これからきっと嫌と言うほど目の当たりにしていくのだろうから。
ただ今だけは晩秋の青い月の下でゆったりと杯を交わして、明日に備えることだけを考えるほかなかった。
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