第4話 ひなたに置かれた赤い眼

 酉暮を抜け狗宵いぬよいに辿り着くまでは、人の足でだいたい半月ほどかかると言われている。馬車や馬などの騎乗できる獣を使えばかかる月日は数日縮めることもできる。

 勿論ただひたすらに順調に旅程を進められた場合であって、道中に悪天候に見舞われたり、つまらぬ諍いなどに巻き込まれたりしてしまうなどすれば、それ以上の月日を要する。

 旅程の順調さはグド達にとって大きな問題だった。

 晩春から初夏にかけての今時分はいいが、盛夏に向かうにつれ植物属性の精霊・魔獣などの勢力が増し、闇に包まれる森である狗宵ではそのような魔獣や魔物たちが猛威を振るうことになる。

 季節が下っていくとまた夜が長くなって闇全体の色が濃く深くなっていくため、森だけでなく、街と街の間の閑散地域の出歩き自体が大変危険なものになってしまう。特に夜は野宿を行わなくてはならないため、こういった類の旅は無謀と言える。

 つまり、狗宵を抜け太陰山連を目指すのであれば、この時季が一年の中で最後の機会と言えるのだった。

 中にはそれを迷信と信じ込んで真冬などに森に入る者がごく稀にあるようだが、そういった者が生還したという話は一度も聞いたことはない。

 そういったことから、五人はあの「役人の雇われ者」と自称していた紫の眼の男・ザングの伝手で、古い幌馬車と馬を一頭手に入れ、それに乗って酉暮と狗宵の境界の集落まで向かうことにした。

 ザングの話だとその集落なら検疫官の審査が甘く、事によっては役所の許可書なしで狗宵に入ることができるということだったからだ。

 伝説だといわれていることにも関わらず、旅には許可書などと言うひどく手続きの面倒な物を必要としているのは、山や森の出入りの目的がそれだけとは限らない物が少なくない。狗宵の近辺には最北の荒れ地があると前述したが、それは罪人に金剛石が採掘させる目的があるからだ。

 当然ながら、金剛石の採掘を誰もが好き勝手に行っていいものではない。仮に無許可に金剛石が採掘されることがあったとしても、そしてそれをどんなにひた隠しにしようとしても、どこかの検問所でひっかかり、国有財の不法所持や不法持込の罪などに問われてしまう。採掘された金剛石を始め宝石類は全て国の役所の所有物となっているからだ。

 自分たちの旅の目的とは異なる事情により、グドたち一行は持参した古い地図に示されている順路とは大幅に異なる進路を取らざるを得なかった。通行証の偽造免除以外に罪を重ねることによって、身動きのとり辛くなってしまうことを考えれば当然の選択ではあった。



「あーのさ、メル」

「うん?」

「何でフリトって、最近、布被ってるの止めたんだろね」

「さーなぁ……」


 五人交代で馬車や馬を操りながら旅路を行く。酉暮を発って寝食を共にし始めて八日ほど経つと、徐々に打ち解け始めてきていた。長く険しいことが待ち受ける旅路を共にするのだから、寝食を共にしつつ互いを知り、無駄に対立しないことは不可欠だ。

 今はフリトが手綱を握り、その隣でグドが退屈しのぎの話し相手になってやっている。その様子を幌で覆われた荷台の中で寝転がったテレントと、葉煙草を飲んでいた緑眼のメルが見守るように眺める。

 出逢った時からずっと、フリトは常に頭から真っ黒な布を被っていて、簡単に顔を見せないようにしていた。さながら南方に広がる砂漠に出る馬賊のような姿だった。赤い砂塵の舞う灼熱の地に住まう彼らは、熱と砂嵐から肌と眼を守るために布を被っているのだという。

 フリトの場合、砂漠の馬賊の特徴である陽に焼けた褐色の肌とは程遠い、透き通るような白い肌をしているのだから、布を被っている意味は大方己の姿を隠すためで、それは先日まで続いていた役所からの追手であろうことは周知のことだ。

 しかし、無罪放免となってからも暫くの間、フリトは頑なに布を取るのを拒んでいた。陽射しが初夏の陽気を帯び、日中は温かな日和が続くのだから暑苦しくないのかと言われても、彼は決して食事の時に口元を覗かせる以外は布を被り続けていた。

 それがここ数日、いままで布など被っていなかったかのように素顔を曝し始めたのだ。

 今まで表情すらうかがうことも手間だった彼の心境の変化に気付いたテレントの疑問に、メルも首をかしげていると、荷台の奥の藁敷きの上で昼寝をしているとばかり思っていた紫眼――これはおそらくなにがしかの精霊の血をひく証だ――のザングが、「グドの影響ですよ」と、答える。


「グドの? なんで?」

「いつだったか忘れましたけどね、彼がフリトに“折角綺麗な眼ぇしてんだから”とか何とか言ってましてね」

「で、布取らせたの?」

「まぁ、簡単に言うと。かなり根気強く説得して、結局フリトが根負けしたって感じですけどね」


 言われてみれば、フリトの紅い右眼は陽の光を浴びて煌めく紅玉の欠片に見えなくもなかった。時折吹く風を睫毛の先で受け止める横顔は、今まで見せたこともないほど穏やかだ。

 車輪の軋む音と車体全体が激しく揺れる音で前方の二人の会話は全く聞こえなかったが、時折、フリトは話しかけてくるグドの方を向いて微かに笑っていた。あの青い月の夜、旅の一行に加わることを承諾した時のように。


「へーぇ……俺には血の色にしか見えないけどなぁ……」


頬杖をついて、いつの間にか手綱を持つのを交代したフリトとグドの姿を眺めながら、ザングの言葉に不可解そうにテレントが言うと、「まぁ、お子ちゃまなおまえにはわかんねぇわな」と、メルが煙を緩く吐きながら笑った。

その言葉にあからさまにむっとした様子でテレントがメルを睨み付けて喚いた。


「お子ちゃま言うな! 俺の方が生まれたのが早いんだから!」

「そーいうのにこだわってるとこがお子ちゃまなんだよ」

「事実だろ!」

「じゃあおまえがお子ちゃまなのも事実じゃんか」

「そんなことない!」

「そうかぁ? 俺がついてってやんなきゃ離れの便所に行くの嫌がってたじゃねぇか、夜中。」

「いつの話だよ!」


 寝転んでいたテレントが思わず起き上がってメルに食ってかかっていくが、二言三言言い返されるとたちまち言葉に詰まってしまう。

 おかしそうに上げ足を取る言葉を並べたてるメルに言い負かされたテレントが、それこそ子どものように拗ねて口を噤んで背を向けてしまうと、やり取りを眺めていたザングまでくすくすと笑う。仲のいい兄弟喧嘩のようにしか見えない光景が妙に微笑ましく思えたのだろう。

 実際メルとテレントは兄弟のようにして育ってきた関係だ。東の都・明卯あけうでも指折りの名門剣術家であるテレントの家に、メルの一族は代々仕える治癒能力の優れた植物属性の精霊一族だからだ。

 メルの一族のように治癒能力の高い種族が名門武道家の家に仕えるという形式はこの国では珍しくない。同じ敷地内に一族ごと住まわせ、奉公人とその雇い主と言う関係と言うより、彼らのように兄弟のように育てられることも少なくない。特に二人は歳も同じで、生まれ月も近いためにそれこそ本当に兄弟だと思われることがよくあった。

 メルとテレントのやり取りの声が車内に響く車輪の音よりも大きかったのか、ザングだけでなく、いつの間にか前方の二人にも聞こえていたらしく、声に驚いたように振り向き、やり取りを見物していた。

 一方的に言い負かされて拗ねているテレントの様子を、フリトが何か言いたげに彼の顔を見てニヤニヤと笑う。

 弁明するにも、話は聞こえていない、と相手から否定されてしまえばそれまでにもなりかねないばつの悪さに、テレントは再び寝転んでそのまま不貞寝を始めた。

 寝転んで見上げた逆さまの空は瑞々しく青く澄んでいて、時折視界の端から端を、南西の郷から渡ってきた鳥たちが数羽横切っていく。

青黒い艶やかな羽を陽に煌めかせながら飛び交うそれらをぼんやり見つめていると、同じ空の下、この先に待ち受けているであろう過酷な日々を想像するのは難しい。穏やかに緩やかに流れていく日々は、明卯の街で剣術の修業に明け暮れていた日々ともあまりにかけ離れていて、テレントは自分の身体が無意識の内に退屈していることを感じていた。

 しかしそれも、瞬きほどの間であろうことも解っている。酉暮を出てから数日、明らかに馬車の進む道は悪くなっていたし、休息するための宿も取り難くなってきていた。

 集落と集落の間隔が広がり始めている。そしてそれもやがてひとつもなくなってしまうだろう。そうなった時からが、この旅の本当の始まりだと言える。

 だから今は、多少身体が退屈であっても、その退屈の八つ当たりにメルに勝てる見込みのない口喧嘩を吹っ掛けることなどで凌ごうと、テレントは思った。時が来るまで、今はすべてを休ませておく必要があるんだ、と。


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