ゆっくりと、いつか。

きりしき

ゆっくりと、いつか。

「肉体と精神は、それぞれ、神様みたいなものだよ」と、その日、あなたは言った。「神様が一人一人、自分の得意なものを司って世界を分担して統治するように、肉体と精神も分担して僕という、ひとつのせかいを統治している。僕だけじゃない。人間全員がその2人の神によって統治されている。人間1人に神様2人。去年、最初の1ヶ月だけ高校に行ったろ? 君が覚えてるかは知らないけど……って君は僕の思考そのものなのだから、覚えてるも何もないけど、その時に僕の隣の席になった、瀬川さん。とても優しい人だった。僕は傍から見たらすごく挙動不審だったと思うし、変なやつって絡むだけで損だろ、それなのに話しかけてくれて。会話ってさ、人に会ってないとどんどん下手になっていく。人間には元々しっぽがあったらしいぜ。小学校のとき理科の先生が言ってた。あの先生も優しかったな。僕が全然うまく話せなくて、どもったりつまったり、それなのにいつも最後までじっと話を聞いてくれて、ああいう先生がずっと一緒にいてくれたら僕もこんなふうには…いや違うか、あんな先生がいたのに僕はこんなふうになっちゃった。あの先生、今の僕を見たらどんな顔するかな。悲しい顔をするかもしれない。可哀想なものを見る目で。同情の眼差しで。そんなことしないって分かってる、だってあの先生は優しかったから、きっとまたゆっくり話をきいてくれるっ……」


 あなたの声が、そこで唐突に途絶える。どうして途絶えたのか。

 普通の人間なら分からないのだろう。扉の向こうにいるあなたの顔を見ることができないから。だからきっと、扉の隙間から漏れ響く微かな嗚咽と、木製の薄い扉の厚みの中を伝達して伝わる柔らかな振動、ほんの小さな温もり、体温で想像するしかない。

 でも私は普通の人間ではなく、あなたのイマジナリーフレンドだから、そういったわずかな手がかりをたぐらなくても、あなたが泣いているということが分かる。掘り当てた油田から大量の石油が噴き上げ降り注ぐ太陽を浴びてキラキラと輝きながらあたり一面にドロドロの水溜まりをつくるときみたいに、あなたの頭の、心の、中を、感情が、悲しみが、悲しみかも分からない止まらない熱量が溢れかえっている。ことがわかる。


 しばらく待つと、あなたの嗚咽はだんだんと小さくなって、かわりに呼吸を整えようとする音があなたの部屋の中をこだます。あなたは、ごめんね、と私にようやく声をかけてから体育座りの膝に埋めていた顔をあげて、それから涙を拭う。


 私は取り乱すこともなく、ただ再び、彼の声に耳を傾ける。扉越しに。私が彼の部屋に入ることはない。彼がそうさせないから。


「ほらね、しっぽが尾てい骨になったみたいに僕の発話がどもりに変わった、って、そういう話をしたかった。それから小学校のときの理科の先生も去年ほんの数週間だけど僕と話そうとしてくれた瀬川さんが優しくて、僕は好きだったけれど、2人とももう会えないかもしれないな」


 話を戻すよ、とあなたは言う。あなたの心は、今はもう落ち着いている。でも、あなたがどんなに落ち着いているときでもいつも不安で心配なモヤモヤとした得体の知れないなにかが心の片隅にとぐろを巻いていることを私は自分にことのように知っている。


「肉体は死や痛みを司っていて、精神は苦しみや絶望を司っている。死は人に時間的制約授け、そこからさらに焦りという名の苦しみが生まれる。だから2人はきっとすごく仲がいい。きみは、僕のイマジナリーフレンドだから肉体はなくて、つまり死ぬこともない。君は焦ることもない。焦らなくていいから、君はゆっくり幸せになることができる。精神もないから苦しむ必要もない。君に、焦らず丁寧に、幸せになって欲しい。ゆっくりと、いつかでいいから」


 話し終えて、あなたは笑みを浮かべた。普通の人ならあなたの顔を見ることができるから、彼は皮肉に渇いた笑いを浮かべたと描写したかもしれない。私は肉体を持たず死ぬこともなく従って焦って幸せになる必要もないからあなたの顔を見ることができない、おかげであなたがその瞬間、一瞬、心の底から平穏を感じていたと描写したい。ただ、私はあなたがどうしてその瞬間、一瞬だけど満たされたのかわからなかった。もちろん、私とあたまを共有するあなたにもわからなかった。




 私は基本的に街を歩いていろいろな場所や人を感じて回って過ごしていた。そしてときどき気が向いてはあなたのもとを訪れて話を聞いた。私はあなたの思考を越えることができないから、あなたにまともなアドバイスもできない。だから何か役に立てていた自信も、あまりない。




 ある日の正午を少しすぎた頃、私はあなたのもとを訪れた。私が行くと、あなたはきまって体育座りのまま自室の扉を背に肩を震わせている。だから私も、音を立てないように静かに、座って、扉越しにあなたを感じながら、寄りかかる。そしてあなたの声をきく。


 あなたは、今日瀬川さんを見た、と言った。瀬川さんは、会って顔を見ることはなくても、この1年間ずっとあなたの中で救いになっていた。瀬川さんとの思い出はほとんどない。少し教室で会話を交わしただけ。

 あなたは、彼女のことを救いだと思っていたけれど、四六時中彼女のことを考えているということはなかった。むしろ、なるべく思い出さないように、質素で小さな箱の中に、限られた思い出を几帳面に並べて、蓋をしていた。あなたはその箱を、本当に限界で、もう開ける以外もうどうしようもなくなってしまったときにだけ、開けた。


 あなたはここ数週間近所のコンビニに出かけられるようになっていた。クラスの人に見られないように気をつけながら、夜の深い時間に一瞬だけ。あなたは、クラスの誰もが自分のことを覚えてすらいないだろうと思っていたけれど、それでも出かけるのはきまって夜だった。

 運が良ければ、月が綺麗な夜だった。月は同じ天体なのに、毎日違ったように見える。欠けたよるもあれば、満ちて大きな夜もある。蒼い夜もあれば、紅みがかった夜もある。それでも運がいいと月が綺麗だった。

 

 その日あなたがコンビニに行って、ドリンクコーナーをしばらくの間眺めたあとそのまま何も買わずに店を出ると、小さいけれど確かな女性の泣き声を聞いた。すぐにはそれが瀬川さんだと気づけなかった。声のするほうに目を向けてようやくあなたはそれが瀬川さんだと分かった。

 彼女は自動ドアのわきの少し離れたところで、立ったまま泣いていた。両手を顔にやっていたから、顔を見ることはできなかったが、それは瀬川さんだった。何度も目をこすって、その度にまた涙が出るから、何度も何度も擦って、拭っていた。店内から漏れだした光が、瀬川さんの背中を照らし出して、夜の駐車場に影を落としていた。

 あなたは立ち止まって、それを見ていた。あなたが立ち止まったからコンビニの自動ドアはしばらく開いたままになっていた。

 あなたが瀬川さんを見ていた時間が、数秒なのか、数分なのか分からない。彼女があなたに気づくことはなかった。あなたは彼女に声をかけようとして、やめた。発話器官が退化していたからなのか、人間が神々に支配されているからなのかわからなかった。あなたは、後になって自分の弱さのせいだと語る。自分は弱い、と。

 声をかけなかったから、あなたは瀬川さんがなんで泣いていたのか結局分からなかった。あなたは、「学校に行ってないから人生経験がたりない、そのせいで彼女がなんで泣いているか想像することも出来ない」、と言ってまた自分を責めた。


 瀬川さんはきっと優しい人だ。優しい人なのに泣いてしまう夜がある。泣くほど辛いことがある。僕はそのことを思うと、我ながら勝手だけど、僕のことでもないのに泣きそうになる。でも、泣かない。だって幸せになるから。僕も、瀬川さんも、みんな、みんないつか幸せになるから。だから負けない。本当は闘わないほうがいいとわかってる。争いはなにも生まないって知ってる。でも、僕は闘うよ。そう決めた。


 闘うよ、とあなたは繰り返し、繰り返し言った。

 そうつぶやくあなたを、普通の人が見たらなんと描写しただろうか。私はあのとき、そうつぶやくあなたのことをなんと描写しただろうか。


 あなたは闘う道を選び、私があなたのもとを訪れる頻度は減った。1ヶ月、半年、1年。時が流れ、ある日あなたの部屋を訪れると、あなたはいなかった。あなたのいないあなたの部屋は、伽藍としていた。


 私はあなたのイマジナリーフレンドとしての役目を終えた。これはあまり知られていないことだが、役目を終えてもイマジナリーフレンドが消えてなくなるといったことはない。目に見えないから、いなくなってないことに気づかれにくい。

 役目を終えるということは友達と会わなくなるということだ。会わなくなることをもって、ひとりの死と呼ぶべきなのか、友達のエキスパートの私としてもわからない。私はあなたと別れ、世界中をめぐり、色々な人を眺める。元々私は人間が好きだから、毎日人間を観察していても飽きることがない。たまに他のイマジナリーフレンドとすれ違うこともある。話しかけたことはないけれど。





 ある日、あなたを見かける。

 あなたの住んでいたあの街から遠く離れた土地の、アスファルトの上の雑踏の中に。近寄るとあなたは、また会ったねと言い、雑踏の中をトボトボと歩みを進みながら私に滔々とささやく。仕事が辛いという話だった。私はあなたの思考を上回ることがないが故に、そこでもまたなにも助けになることができない。ただ聞くことしかできない。あなたはしばらく話したあと、じゃあね、また会うかもしれないけど、と言って、雑踏の中へと戻って行く。歩みは、もうしっかりとしていた。


 それからも、たまにあなたに会うことがあった。1ヶ月ぶりのこともあれば、数年ぶりのこともあった。

 あなたは「会うのはいつも負けてるときだね。泣いてばっかりでみっともないよね」と話した。

 確かに会うときは、泣いているときばかりだった。


 私は知っていた。あなたが闘いを選んだこと。肉体という神に支配され、制限時間のある身で、それでもそれを選択したこと。






 数十年の月日が流れ、その日あなたが死んだことを知った。あなたは結局最後まで闘い続けた。

 その闘いが勝利で終わったのかを私は知らない。

 あなたの死体は荼毘にふされ、煙になって空高く昇った。それからという日、私があなたに会うことはなくなった。今度は本当に全く。


 あなたが死んでからも、人類はなくならなかった。また新しく別の生命が生まれ、それぞれの生命がそれぞれに苦しんだり喜んだり、泣いたり歩いたりしていた。ただ、どのような人格でどのような人生を送ろうとも、最後にはみな一様に死んだ。数え切れないほどの誕生と生活と死が繰り返された。その中には、あなたのように闘いを選ぶ人もいれば、選ばない人もいた。

 私はそれをずっと眺め続けている。人間が好きだからなのか、飽きることは今のところない。


 私は今幸せだろうか。

 分からない。

 でもあなたが言ったように、幸せになりたいと思う。ゆっくりと、いつか。

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