42 及川 浬


なんで? どこに...  閉じた瞼を開く。


鬼神の不揃いな足のすぐ後ろ、手水場に広がった水から 両腕が出ていて、肘から手首を地面につけた状態になっている。

腕に力が込められたように見えると、濡れたピンクブラウンの髪の頭が出てきた。

続いて、首や肩も。


リヒル君だ...  無事だったんだな...

胸の奥や目頭が熱くなる、あの感覚が甦る。


リヒル君が、地面についた両手の手のひらから両腕を ぐっと上に伸ばすと、水の地面の上に 腰までが出た。


なぜか、全身が濡れている。

水から出てきたからか?

でも、俺らが物理的に濡れることなんてあるんだろうか?

いやでも、これが 黄泉の水 なのなら...


“カイリ” と呼んだ リヒル君の眼は、鬼神の背中に向いている。

水の地面から出た右足の裏が 地面を踏み、左足も出ようかという時に、リヒル君の胸から白い手が伸びた。あれは 黄泉軍の...


あ...  と、一瞬の間に、“取り憑かれちまったのか? それとも食われて”... とぎったが、リヒル君から伸びた手は、鬼神の腰に入り込んだ。


水の地面から左足も出した リヒル君は、鬼神の後ろに立つと

「さて。分かっておろうの?」と 別人の声で言っていて、ギョッとする。

やっぱり、取り憑かれちまったのか?


「... 連蒼様」


あれ... ?

鬼神から聞こえる 黄泉軍の声は、明らかに焦っている。レンソウ様?


「違うのです、これは... 」

「我が黄泉に迎え入れるべき 死人の魂を... 」


「生者の精気を奪ってまでか?

おう、おう。浅ましき姿よのう」


リヒル君 じゃないんだろうけど、カッコいいな...


バチン!と 弾けるような音がして、鬼神の額の角や眼、開いていた口や、そこから伸び降りていた舌までもが弾け飛んで霧散した。

一瞬だ... なんか、ヤバい人が憑いてるのか?


「その霊を離せ」


リヒル君が別の声で言うと、俺を掴んでいる白い手が躊躇している。


「連蒼様... 貴方は、分かっておられぬ... 」

「伊邪那美様が御立ちになれば、この様な愚かなる現世など... 」

「何の為に生み出されたか... 」

「強者のみが笑い、操る世など... 」


“愚かなる”... 耳が痛い と感じるのは、あまりにも無関心に生きていたからだろうか?

下手したら、自分自身にも。

伊邪那美様は、元々 黄泉の神だった訳じゃない。

国生みの神だった。

俺らは、その国に生まれて育まれている。


「良いか? 伊邪那美様は望んでおられぬ。

お前達が決める事ではない。戻れ」


鬼神の背や胸から生えている白い手の血管が 一瞬 蒼白く浮き出て見えた。

月の宮から見る 星々の河の色を彷彿とする。

その色がまたたいたかと思うと

「ギャッ!」と 耳障りな声が響いて、俺を掴んでいた白い手の指先が ぽとぽとと崩れて、地面に広がる水に落ちて沈んでいく。


水に落ちて消えていくのは、足の無い白い虫だ。

何かの幼虫のような。

白い腕の大部分が落ち、水の地面で虫に ばらけながら沈んでいくものもあって、無いはずの血の気が引いた。

シャツや腕に残っている虫に気付いて、焦って払い落とす。


鬼神から全ての白い腕が 虫になって落ちると、リヒル君の胸から伸びていた白い手が、鬼神から抜き出された。


「小僧共、伊邪那美様に感謝するが良い」


リヒル君から発せられる別の声は、透樹君やトモキ君に向けられたもののようで、拝殿の前に立つ 二人が深々と頭を下げている。


「理陽とやら。後程」


別の声で言った リヒル君は、空中に視線を彷徨さまよわせた。

胸から突き出ていた白い腕が消えていて、手水場の周囲に広がっていた水が引いていき、参道や地面が乾いていく。


「うっ...  うっ... 」


すぐ前に向き直った。そうだ、まだ鬼神が居る。


サマエルさんの片手に首を掴まれている鬼神は、肋の胸をゼロゼロと上下に鳴らすと、俺に怨みの眼を向け、青く逞しい両手で 俺の首を掴んだ。


「... アアッ、アーッアーッ!!

アアアアアーーーーーッ!!」


オオオ... と 咆哮になっていく悲鳴に、手水場の水が揺れて波紋を描き、神社の木々の葉が さざめいた。


「混乱しているようだな。

気息以外にも何か残っている」


気息?... 生者の精気のことか?

サマエルさん、落ち着いてないでほしいけど、確かに鬼神には まだ、取り入れられた魄が残っているはずだ。


天を仰ぎ、咆哮する鬼神は、俺の首を掴んでいる青い両手を 小刻みに振り出した。

堪らず両手で その青い手首を掴むと、電気が走ったようになって 悲鳴が上がる。


「スミカくん!!」


顔は向けられないけど、リヒル君の声だ。


「スミカくん、現世こっちに戻ろう!!

嘘の約束に囚われなくていいよ!!」


鬼神の咆哮が大きくなった。参道の石畳までるわせている。

リヒル君も、鬼神の腕を掴んでいるみたいだ。


「この腕は、お母さんを手伝う為に使うんだよね?!」


ガクンと、片腕が 肩から外れた。

リヒル君が掴んでいる 鬼神の左腕が細くなっていき、青みが引いていく。

みるみると枯れ枝のようになった腕が だらりと下がると、リヒル君の両手には、生きた色をした人の腕が掴まれていた。

大島君の腕の精気だ。

明るい日差しの病室で微笑っていた 大島君の お母さんが浮かんだ。


「そうだよ、お母さんは もうすぐ退院するんだろ?」


あの お母さんが退院したら、本当に たくさん手伝ってあげてほしい。

俺が、母さんや 父さんにも、出来なかった事を。


「退院する時、荷物を持ってあげないと」


鬼神から離れた大島君の片腕は、俺の手の中に残った。

温かく輝いていて、生きているものだと分かる。


「よし、二人共 腕を持って離れろ」


後ろから サマエルさんに言われて、鬼神の傍から リヒル君と離れようとしていると、青く逞しい左足が上がり、また蹴り飛ばされた。

くそ...  でも、まだ あの足が...


「サマエルさん、足が... 」


「いや。ちょうど良かったな」


何が?... と 掠めた時、拝殿の方から走り伸びてくる蔓が 鬼神に巻き付いて引っ張り、サマエルさんの片手が首から離れた 鬼神の腰を参道につかせた。

蔓を目で辿ると、拝殿の前にしゃがんで 片手の手のひらを参道につけているトモキ君が居て、蔓は その手の下から伸びてきている。

何なんだ、あの人...


真上に現れた扉は、幽世... 月の宮の扉だ。

扉が開くと、飛び降りた 浅黄君が、黒い薙刀の切っ先を鬼神の胸に突き込んだ。

さざめいていた木々の葉音や 手水場の波紋も、唐突に消えている。

トモキ君の手の下から伸びていた蔓も。


「腕は、儂が預かるかの。りひるも参れ」


うわ 榊さんだ...

縁の赤い切れ長の眼を流されて、大島君の腕の精気を預けた。


『... “けまくもしこき伊邪那岐大神いざなぎのおおかみ”』


透樹君の祓詞が響く中、凪さんが

『朋、足だけでも見れる?』と聞いたけど、トモキ君は

『里で ルカが足の主から読んだみたいだぜ。

願いは、“夢でもいいから、死んでしまった犬に会いたい” だ』と 返している。

それを、そんなに強く願ったのか... ?

足を渡してもいいと思うほど。

あぁ... と、遠くて懐かしいの感覚が甦った気がした。


「モカ、で あろうかのう?」


大神様の声だ。

扉の中に立っていて、なんと犬を抱いている。

しかも、垂れた長い耳がウェーブの髪のようにも見える、キャバリアという犬を。


キャバリアのモカは、大神様の腕から飛ぶと、その名前と同じ色の耳を靡かせて、鬼神の青く逞しい左足のすねを噛んだ。

足は悲鳴を上げず、モカは ぐいぐいと足を引っ張ると、女の人の足が鬼神から離れた。


「お前には 重かろう。榊」


「ぎょ 御意... 」


榊さん、大島君の両腕の精気と 女の人の足も か。

裾が地面に着いている華美な着物に包んだ身体で、そろそろとしゃがんで

「ほれ」と、前結びにした金の帯の前にかかえている両腕に 女の人の足を重ねるよう、モカに示してるけど、何故か腰が引けている。


あれじゃあ、置きづらそうだな...

モカを抱き上げて、榊さんに足を預けさせると、モカは名残惜しそうに 足を見ながら、くうん と 小さく鼻を鳴らした。

寂しそうだ... このまま抱いておこうかな。


『... “筑紫つくし日向ひゅうがたちばな小戸おど阿波岐原あわぎはら御禊みそぎはらたまひしときせる祓戸はらへど大神等おおかみたち”... 』


薙刀を突き込まれ、動けずにいる鬼神の髪や身体が濡れてきている。雨に当たったように。

ほっそりとした腕や足。

衣類は、元の白いシャツと膝が隠れる程度のパンツに戻っていて、なんとなく哀れな気がした。


『... “諸諸もろもろ禍事まがごとけがらむをば 祓へたまきよめ給へとまをす事を聞こしせと かしこみ恐みもまをす”』


鬼神が白い蒸気に包まれ、その身から離れると 白い霧になって立ち上る。

人が死んでも、魂が昇っても、まだ残ってしまうもの。


それは、死んだ人が残していくんだろうか?

それとも、生きている人がいるから 残ってしまうんだろうか? 失った生に惹かれて。

未練や怨み、感情や、遺していく不安が。


榊さんが黒炎で掻き消すと、浅黄君が薙刀を引き抜いた。

あとに残ったのは、ただ年老いた男の霊だった。

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