33 及川 浬


リヒル君を飲み込んだ水たまりが、急速に縮んでいく。


どうして...


「なんで、邪魔したんですか?!」


思わず、榊さんに怒鳴ってしまう。

榊さんが吹いた あの黒い炎に邪魔されなかったら、俺の手は リヒル君に届いてたんだ。

榊さんの視線で振り向いたら、リヒル君は もう、水の中に腰まで浸かってしまっていた。

でも、手が届いていれば 引っ張ることが出来たはずだ。なのに...


「お前も共に引かれておったであろうよ」


だったら、その方がマシだったんじゃないか?

リヒル君は どこに連れて行かれちまったんだ? たった独りで! 黄泉ってところなのか? もう 戻れなかったら...


一先ひとまず、幽世へ戻り... 」

「簡単 に!」


榊さんの言葉を遮って

「見殺しにするんですね!」と 吐き捨てた。


「あなたも、神使なんじゃないんですか?

神隠しや幻惑ゲンワクか何かが出来るからって、それが何なんですか?

何も出来ない俺らと どう違うんですか?

リヒル君が... 」


引っ張られてしまったのに...  地の底の、泉に


「助けようとも、しないで... 」


どうしようもないほど カッとしてたのに、泣きたくなってきた。

助けられなかった... 本当に、何も出来ない。

これは、八つ当たりだ。


「すまぬ」


目を逸した。

すっかりと乾いてしまった 水たまりの場所に、視線が落ちる。


「すまぬ、浬よ。

お前の言う通り、儂では 力が及ばぬのじゃ。

黄泉軍の方々などには、とても」


謝らせてしまっている。

でも、口が開けない。

謝っては欲しくない。榊さんは悪くない。

それに、リヒル君を任されてたのは、俺なんだ。

さっき、ごちゃごちゃ言ってないで、さっさと月の宮に戻っていれば、こんなことには ならなかった。

自分のせいなのに、リヒル君が取られてしまったことに納得がいかない。


「りひる とやらを、このままにしておく気などは 毛頭ないが、鬼神とやらは 先の女子おなごの足の精気により、更に力をつけておるのだ。

りひる とやらを取り戻そうにも、月夜見きみ様や、高天原の神々に報じ、指示を仰がねば... 」


「嫌です」


やっと 口を開けたと思ったら、何 言ってるんだ? 俺


「榊さん、あなたは、“界の番人” だと聞きました。

高天原ってところへ上がるだけじゃなく、黄泉も開ける って」


乾いた水たまりの場所から、目を上げる。

縁の赤い切れ長の眼には、同情と申し訳なさが映っていた。


「開いてくださいよ」


黙っている 榊さんに

「今すぐ。リヒル君を返すよう、俺が交渉します。

だって、リヒル君も大神様のもとで働いていて、伊邪那美様のもとで じゃないんですから。月の宮の住人なんです」と 畳み掛けた。


「ならぬ」


わかってた答えだ。

もちろん、俺に交渉が出来るはずがない ってことも わかってる。


「りひる とやらが、黄泉にるとも限らぬ」


えっ? でも、水の下に...


此度こたびの事は、伊邪那美様の御意志の事ではなく、鬼神とやらの誘いを受けられた 一部の黄泉軍の方々の、暴走ともいえる事よ。

ならば、こころざし半ば... これは、月の宮に向かう魂を 黄泉へ向かわせる様 変更する などという事であるが、それを為さぬ内に、黄泉軍の方々が 黄泉へ戻られようか?」


「いや、さっきは俺たちにも “危険が及ぶ恐れがあるから” って 言ってたじゃないですか。

それは、黄泉に引っ張られること だと... 」


「ふむ。“その為に” 月夜見様や 伊邪那岐様の結界を冒そうと、凪と交渉されておろうよ。

黄泉軍の方々が 黄泉へと戻られるのは、結界破りをしてのち ではあるまいかのう?」


じゃあ、リヒル君は?

黄泉じゃなかったら、どこに連れて行かれたんだ?


榊さんは、何も返さなかった 俺に

「黄泉軍の方々は、りひる とやらも、月夜見きみ様の神使である と 御存知であられようよ。

ならば、凪に注連しめ縄を取らせるなど、事を有利に運ぶ為に取られたもの と みえるが」と 続けた。

リヒル君は 人質みたいなもの ってことか...


「よって、鬼神の中にるなど、どこぞに隠されておるのでは なかろうか?」


そうかもしれない。

多分人間であろう凪さんにだって、俺らみたいな霊を何人も取り込めるくらいだ。

鬼神にも、霊を取り込んで隠す くらいのことは出来るだろう。


けど、もし... リヒル君が鬼神と、そのまま同化してしまったら... ?


いや、それは ないはずだ。

榊さんの推測を信じれば の 話だけど...


「浬よ。斯く言う儂にも覚えはあるが、いて良い事は ひとつもないのじゃ。

十分に策を練り、考え得るだけの相手の策の 幾重にも上をいかねば。

それが、りひる とやらを取り戻す事にも繋がろうよ」


そうだよな...

今のままじゃ、どうやって取り戻せばいいのかも わからない。


「りひる の事も合わせて、高天原にて報じる故、まずは戻るが良い」


「はい... 」


一度、水たまりが乾いた地面に 目を向けると、リヒル君の頭が沈んでしまう瞬間、黒い炎の下で 眼が合ったことが過ぎった。


「浬!!」


... やっぱり 嫌だ!

消えて移動する瞬間、榊さんに

「すみません!」と 一応 謝ると

「ぬううぅ... 」という唸りと 強い怒気を感じて、身体中の毛穴が縮んだ。




********




死んでても、鳥肌って立つんだな...

ハーゲンティさんに会った時とは、また違ったけど。

それに、ヤキモキしたりモヤモヤもするみたいだ。

月の宮に居たら、そんなことはないんだけどな...


開かれた扉の前から消えて、移動したのは 羽加奈 南駅だった。

とっさに思いついたのが 南駅だっただけで、別に意味はない。

多分、大島君の部屋を見た後に、リヒル君と、“南駅に行ってみようか?” って話になってたからだと思う。


すぐに榊さんに捕まるか?... とも考えて 焦ったけど、今のところは大丈夫だ。

榊さんや浅黄君は、俺ら霊みたいに、消えて移動する事は出来ないんだろう。

生身の身体もあるし、死んでない。

化け狐 っていうか、柚葉ちゃんからは、“霊獣” って聞いたことがある。

とにかく、あの扉から月の宮を介さないと、瞬間移動は出来ないみたいだ。


しかし、“瞬間移動” って...

そんな言葉、使う日が来るとは思わなかったぜ。

まぁ、生きてる間に使ったことはなかったけど。


それにしても... 駅のベンチに座って考える。

このベンチの裏に植えられてる木、なんか嫌だな。


いや。逃げるな、俺。

リヒル君は、鬼神に取り込まれてしまったんだろうか?


凪さんに注連縄を取らせる為に 脅す材料にするんなら、リヒル君を吸収?っていうか、魂を消したりはしないと思うけど、鬼神に取り込まれずに どこかに隠されてる としたら、それは どこなんだろう?


「... リヒル君」


名前を呼んでみる。


「リヒル君、どこ?」


隠されてたら、やっぱり届かないかな?

ちくしょう...


「おーい、瀬田 リヒル! 返事しろ!

リヒル! リーヒー... 」


ハッ...  隣に 誰か座った。生きてる人だ。


けど、膝に座られなくて良かった... とか思いながら 顔を向けてみた時に、ジーパンの後ろでスマホが短く震えた。


あれ? 今田?


リヒル君を呼んでたの、聞かれてたんだろうか?... とか、気恥ずかしくなりながら

「もう、仕事 終わったのか?」と 聞いてみると、今田は 微かに頷いて、手にしたスマホを動かして示した。


ジーパンの後ろからスマホを取り出して見てみると、メッセージアプリの 今田のところに

“何してるの?” の 文字と、首を傾げて “?” を出している ウサギのスタンプが入っている。


「いや、うん... あ、今田。“しばらくバスで帰りな” って言ったのに」


前に向いたままの 今田は、少し口を尖らせると

“美希と待ち合わせしてるの” と 入れてきた。

美希って、原沢か... 気ぃ強いんだよな、あいつ。

しかし 今田、すっかり慣れたみたいだな。霊の俺に。


続けて 今田は

“リヒルくんのこと、呼んでたよね?

一緒に居ないし、何かあったの?” と 入れてきた。


「あー... うん。いや... 」


そういえば、“大島くんは保護されてるから大丈夫” ってことだけは、報告しとくんだったよな...

でも、リヒル君が連れて行かれた今 話すのは...


“何かあったんだ。話せない?”


角から恨めしそうに、半分 顔を覗かせるウサギのスタンプも入った。


『だって、気になっちゃうよ。

あんな呼び方してるんだもん』


あっ、声に出して言いやがった。

通りかかった おばさんが ギョッとしてる。


「今田、スマホで... 」


『うん... でも』


おい、文字で頼む。

はぁ... 今田は、放っておけない んだよな。

困ってるヤツを見ると。


「だから、スマホ」と、耳に宛ててみせると、今田も 自分のスマホを耳に宛てて

『うん、わかった』と笑った。

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