25 及川 浬


『鬼神、戻ってきたね』


凪さんの声で、我に返った。

まだ石段に残る墨色の靄から目を離して顔を上げると

「凪。拝殿にれと... 」と言う 大神様の言葉が止まっている。


「凪さん? なんか... 」


リヒル君の声にも不安を覚えながら振り返ると、視線は自然と、参道に立っている凪さんの黒いジョガーパンツの足に引き寄せられた。


わかる。透けて見えている訳じゃない。

どうしてかわかるのは わからないけど、右足が青く染まってる。

スミカ君の両腕が青くなっていたように。


焦燥と脱力感を覚えながら、いつ? どうして? ... と 考えてる間に、凪さんが

『白い手が、拝殿の前から手招きしてたの。

肘から上を地面から生やして』と言った。

ぞわぞわとしてきたのは、黙って聞いている大神様から、怒りが滲み出してきているからだろう。


『ただの霊の手じゃないことは分かった。

あんなの、見たことないし』


大神様や俺らが鬼神と対峙している間に、黄泉軍の 一人が 拝殿に向かってた... ってことなんだろうか?


『それで私は、その手を掴んでみたの。

もしかしたら取り込めるかも とか思って』


「その様な訳が... 」


三叉の矛の先を石畳みに下ろした大神様は、常夜の靄を集め送りながら吐き捨てるように返して、また黙られてしまった。

俺も、いくら凪さんでも、黄泉軍の人たちを取り込むのは無理だと思う。

凪さんだってわかってたはずだ。


『そしたら手が、“注連縄を燃やせ” って伝えてきて。

随分、切迫してたみたい。

まぁ、そりゃそうよね。月夜見様たちの気も引いておかなくちゃならなかったんだし。

でも断ったら、今度は “願いを叶えてやる” とか言ってきたから... 』


凪さんは、大島君が狙われたように、自分が狙われたらいいんじゃないか? と考えてしまったようだった。つまり、囮だ。


大島君は、狙われてから すぐに腕の精気を奪われた訳じゃない。

入院していた お母さんが回復する... という願いを叶えてくれた と 騙されてから、腕の精気を渡している。

この、“渡す” ということについて考えてみたようで、鬼神... または黄泉軍であろうと、相手の合意無しに、生者の精気を “奪う” ということは出来ないんじゃないか? と、推測したようだ。

これは多分、当たっていると思う。

奪えるなら、“願いを叶えてやる” と 騙す必要は無いから。


「何を ねごうた?」


凪さんが

『“弟を連れ戻して”』と答えると、大神様の肩が落ちた。

怒りまでが解けていて、えっ?... と困惑するばかりで、自嘲気味な表情になっている 凪さんの願いの内容の意味にまで 頭が回らない。

大島君の腕が 枯れ枝かミイラのようになって、更に変形してしまったことが、ありありと思い出される。


『“連れ戻してくれたら、注連縄を燃やす” って返したんだけど、手は “忘れるな” って言って、私の手を離すと、右足の膝を掴んでから消えた。

鬼神が消えるのと同時にね』


凪さんを呼んで交渉した手は、鬼神が胸から突き出した黄泉軍の手なんだろうけど、だったら厄介な事になる。

鬼神の身体から離れて、単独でも動けることが判ってしまった。


鬼神が 大島君の腕の精気を取り入れてるから、黄泉軍の力も増してるんだろうか?

それなら精気を取り入れる度に、本当にどんどん強くなってしまう。


「ジェイドを呼び戻し、四方位を」


でも凪さんは、大神様の言葉に

『ううん。それじゃあ、釣れないじゃない』と返している。


鬼神あいつは まだ、自分で注連縄を取り払うことは出来ないんだと思う。

伊邪那美命の黄泉軍を取り入れても、伊耶那岐命や 月夜見様の聖域を冒す程の力は付いてない』


生者の精気が足りないから ってことなのか?

とにかく、凪さんの精気を渡す訳にはいかない。

いや、これ以上 誰の精気も。

でも どうしたら...


『多分だけど、鬼神が ここに戻ってきたのは、私を狙うためだったんじゃない?

私は神職でもないし、ジェイドたちみたいに、天使の加護も悪魔の印もついてないしね。

だけど、この神社に近い匂いは嗅ぎつけてたみたい。小さい頃から通ってたから。

神社ここに居ても警戒されないし、注連縄を外させるには うってつけよね?』


透樹君やトモキって人は神職で、ルカって人は ハーゲンティさんと知り合いだった。

天使の加護がついてる っていうのは、神父のジェイドって人なのかな?


けど、凪さんも サマエルさんが護ってるようなものなんじゃないのか?

俺が悪霊になりかけた時に、凪さんの中で会った人だ。

今は不在らしいけど、あの人も御使い... 天使って聞いた。


「でも、だからって...  凪さんが... 」


不機嫌なのか、落ち込んでいるようにも見える リヒル君が、凪さんに抗議している。

そうなんだよな... 誰が狙われてもダメなんだけど、なんで囮なんて買って出たんだろう?

俺も同じような表情かおになってしまってるかもしれない。


「凪」


大神様の声じゃない。

凪さんの隣に、忽然と外国人の男が立った。

波打つブロンドの長い髪に黒いスーツ。サングラスを掛けている。サマエルさんだ。

これが 天使、なのか... イメージと違うんだよな... だいぶ。


「ツキヨミ?

いや、神社だか、何故 降りている?

あと ゴーストか... お前は、カイリ・オイカワじゃないのか?」


サングラスをかけていても、眉根を寄せたのがわかった。

サマエルさんは盲目だと聞いたことがあるけど、一応 会釈をして、リヒル君の紹介をしようか、いや 大神様が触れなければ しない方がいいのか... と躊躇していると、サマエルさんの顔がリヒル君に向いた。


「リヒル・セタ。24 か」


リヒル君は、“ナニ このヒト” って風に固まったままだった。会釈も忘れている。

サマエルさんも、それ以上 リヒル君に興味を示さず、凪さんに

「何だ、その足は」と聞いた。




********




幽世... 月の宮では、若草が柔らかに揺れ、蒼白の星の河のほとりに大木。

いつもと同じに穏やかだ。


サマエルさんには 大神様が事の次第を話し、伊邪那美命のお社に祝詞を捧げていたトモって人を 凪さんがスマホで呼び寄せると、凪さんのことは サマエルさんとトモキって人に任せて、俺らは 大神様と 一緒に、一度 月の宮へ戻ってきた。


月の宮ここに居ると、さっきまでのことが嘘みたいだ。というか、もう遠いことのように感じられる。

その分 落ち着いてきて、冷静になれた。

魂の休息 って、こういうことなんだろうか?


「ねぇ、カイリー... 」


ずっと大人しかった リヒル君が、大木の下で柚葉ちゃんと話をしている 大神様の背中を見ながら、話しかけてきた。


顔を向けると

「凪さん、大丈夫なのかな?

スミカくんも」と、心配そうだ。

うん... と、胸から出した無数の白い手で 三ツ又の矛を引き抜いた鬼神を思い浮かべた。

俺も心配だけど、大島君は ハーゲンティさんと契約したし、凪さんには サマエルさんが付いてる。

大神様が あの場に留まらずに、一度 戻ることを選んだんだから、大丈夫... なのかもしれない。


そういうことを返してみると、リヒル君は

「でもさぁ、大神さまは、あんまり月の宮ここから離れる訳にいかないから... なんじゃないの?

月の宮ここを治めてる神さまだし、鬼神は 月の宮ここも狙ってそーだったじゃん」と、大木の下から視線を外し、広い草原を見渡している。


「それに さ」


リヒル君は、言いづらそうに ぼそぼそと

「凪さんの、願い って... 」と 言葉を止めた。


... “弟を 連れ戻して” か。


凪さんの弟さんは、俺らのように亡くなってしまっているんだろうか?

大神様の肩が落ちた時に、なんとなく “あぁ、無理な願いなんだ” って気がしたんだよな...


「でも、ハーゲンティさん?だっけ?

あの赤い悪魔の人、凪さんに、“大丈夫” って言ってたよね?

それも、弟くんに関係してるのかな?」


あ そうだ...

すごく気にかけてるように言ってて、凪さんも 少し安心したみたいに見えた。


「オレね、なんかさ... 凪さんは、ただ囮になったんじゃなくて... 本当に それを願ってて、半分... 」


リヒル君は また言葉を止めたけど、“鬼神を頼ってしまってるように見えた” んだろうな...

実は、俺も同じ印象だった。

なんか、藁にもすがる... っていうか。


「浬、理陽」


大神様に呼ばれて、二人して パッと顔を上げた。

何故か、良くないことをしていて見つかったような気分になる。


「ハイ!」と 返事をすると、大木の下へと走った。

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