第38話 すごく急いで進もう


 ぱたり、と魔本を閉じた。特段力を入れたつもりはないが、その音はやたらと大きく暗闇に響いたように感じられた。


「リリエリ、完治しました」


 再び炎の頁を開き、その上で両手を握ったり開いたり。問題なく動くことを見せると、ヨシュアはうんと一つ頷いた。


「もう出れるか。なにかし忘れたことはないか」

「そうですね、片手でもできることはあらかた……」


 リリエリは言葉を切った。やるべきことは、もう一つ残っている。……できれば避けて通りたかったとは、切に思うのだか。


「……あの、出発する前に、聞いていただきたいことがあるんです」


 もっと前から話すべきだった。それこそ腕の治療中にしておくべきだっただろう。それをこの土壇場までズルズルと引き伸ばしてしまったのは、ひとえにリリエリの心の弱さである。


「私の腕の話を、聞いていただけますか」

「…………」


 ヨシュアは何も言わなかった。真剣な顔をするリリエリのことを、ただじっと正面から見据えただけだった。


 リリエリの両腕には、魔術紋章が刻まれている。

 魔術紋章を人体に直接刻むという使い方は、時折使用される方法ではあるが、リリエリに至っては両手足で計三ヶ所も行っていた。何のための紋章だと勘繰って当然の規模である。


 包帯を巻いてくれたのは他ならぬヨシュアだ、目にしていないはずがない。その上で、ヨシュアが何も言わないのは、きっとリリエリを試しているのだ。


 ギルドマスターとして。リリエリが信頼に値するメンバーなのかどうかを。


「いや、いいかな。先に進もう」

「えっ」


 えっ。

 

「あの、えっ、これ、気になりませんか。何だソレってなりませんか?」

「気にならないことはないが、……オレだって話せないことがある身だ。言いたくないことを言わせる気はないし、聞く気もない」


 前言撤回。ヨシュアは別にリリエリのことを試す気はないらしい。


「じゃあ行こうか」

「えぇっと、うん、じゃあ……」


 腕の紋章は、今となってはただの飾りだ。足の紋章とは異なり、冒険者としての致命的なディスアドバンテージを補うものではない。

 言っても言わなくても構わないなら、ヨシュアの心遣いを素直に受け取りたいと思う。……リリエリにだって、まだ飲み下せないものくらいあるのだ。


 つまり。リリエリは説明を諦めた。


「……行きますか!」


 締まりのない始動であったが、そんなことはどうだってよかった。締まろうが締まらなかろうが、洞窟の終わりは目と鼻の先で彼ら二人を待っている。その事実は、どうしようもなく変わらない。



■ □ ■



「うわ、これまた派手にやりましたね」


 出発して数分。先程大ムカデと戦闘した場所は、砕けた石や岩で滅茶苦茶に荒れていた。

 中でも目を引いたのは、奥の方で絶命していたムカデだ。頭部は潰れ、胴体の一部はまるで隕石でも直撃したかのように大きく抉れている。

 周囲の岩壁にはムカデの足による破壊跡が残っており、ヨシュアによって身体を蹴り破られてなお激しく暴れ回った様子が伺えた。


「ヨシュアさん、これを抱きとめようとか考えていたでしょう。……相変わらず無茶なことを」

「考えただけだ。実行には移してない。……次また同じような状況になったら、今度はやる」

「それ、ギルマス命令ですか?」

「ギルマス命令だ」


 なら仕方がない。リリエリはそれ以上何も言わなかったが、ヨシュアにそうさせてしまう自分がいるというのは、やはり歯痒いものである。


「アンタこそ、よく腕だけで済ん……いや、あー、そう、荷物も無事で……うん。良かった。無事で」


 歯切れの悪いヨシュアの言葉からは、彼がなんとかリリエリの腕の紋章に触れまいとする努力が伺えた。ありがたいような、申し訳ないような気持ちだ。言わないという選択は、やっぱり間違えていたのかもしれない。リリエリは、早々に後悔しだしたことを心の中だけで自嘲した。


 それにしても、ムカデが暴れただけにしては、ここ一帯は嫌に大きな岩石ばかり転がっている。

 リリエリは天井に目を向けた。あわよくば希少な鉱石でもないかと、その程度の動作であったが。


「……ここ、天井が、」

「…………ヒビが入ってるな」


 洞窟の崩落。

 ……考えうる限り最悪のシナリオだ。


 思い返せば、枢石喰らいが暴れた際には地鳴りのような音の他に、大きな物が落下するような音もしていた気がする。それが天井の部分的な崩落によるものだとしたら。


「枢石喰らいが思いっきり暴れたら、私たちは……生き埋め?」

「かもな。……つまり、オレたちにできることは一つだ」


 すごく急いで進もう。


 あっさりとのたまうヨシュアに、リリエリは強い目眩のする心地であった。なんとなく久々の感覚だ。ちょっと休憩を挟んだことで忘れてしまっていたらしい。


 そういえばこの人、滅茶苦茶な人だったな。

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