第37話 光
「あと五分くらいで完治しそうです。お手間をおかけしました」
リリエリはそう言って、魔本の上に乗せている左手をにぎにぎと動かした。右手は既に治っており、気がはやっているのか先程からリュックの整理を行っている。
「手間じゃない。治りそうで安心した。それに、その魔本があの時に汚れたり破れたりしていなくて本当に良かった。……他の荷物は無事なのか?」
「はい。荷物は咄嗟に自分の背中に隠しましたから。枢石もロックピックもマチェットも全部無事です」
「そうか」
じゃあ、そろそろ出発だな。とヨシュアは立ち上がり、軽く身体を動かし始めた。この"エリダの枢石窟"の最奥はそう遠くないだろうとの見立ては、二人の中でも一致していた。
時間、体力、物資等は足りている。目下最大の問題は、最奥にいるであろう枢石喰らいだ。
この横穴が枢石喰らいにより作られたものだとしたら、最奥に辿り着くということは、それ即ち枢石喰らいと邂逅するということである。
「……枢石喰らいの件ですが、必ずしも戦う必要はないと思うんです」
リリエリ達の目的はあくまで"エリダの枢石窟"の踏破と転移結晶の設置である。洞窟内の安全確保や枢石等希少鉱物の採取は、当然望ましいことであるが、必須ではない。
枢石喰らいとは相対せず、本来の目的を迅速に達成した方がいい。――これがリリエリの意見だった。
「最奥を確認し、もしもそこに枢石喰らいがいたら……刺激せず、引き返しましょう。転移結晶の設置は、なにも最奥じゃなくてもいい。
枢石喰らいの討伐は、こことエリダ村との転移結晶を繋げた後、人手や物資を十分に準備してからやればいいんです」
「迂遠な方法だ。ここで倒してしまえばいいんじゃないか」
「……枢石は、硬いんですよ」
リリエリはリュックの中から、比較的大きめな枢石の結晶を一つヨシュアに投げてよこした。
元々枢石喰らいの食べ残し(でないことを、リリエリは未だに願っているが)をかき集めてきたうちの一欠片である。大きめとはいっても、リリエリの小さな手でも二、三個握れる程度のものだ。
「どうですか。素手でいけそうですか」
「無理だ。硬い」
ヨシュアは受け取った枢石を思い切り握りしめたが、砕けるどころかヒビの入る気配すら見られなかった。
リリエリは、ヨシュアのそういった普通の人間らしい所作に安堵を覚える。ヨシュアの身体能力や思考は並外れているものであるが、それでも彼は確かに人間であった。
人は彼のことをやれ"死神"だの"怪物"だのというが、そんなありきたりな単語で済ませて良い人間などいないのだ。……つい昨日までヨシュアのことを怖がっていた自分がいたのも、紛れもない事実であるが。
これからは見誤らないでいたいと思う。だってヨシュアは、リリエリのギルドマスターなのだから。
「枢石喰らいは自分の身体に枢石を取り込んでいます。なので、その欠片と同等……いえ、それ以上の硬度を持っているはずです」
「……確かに、ある程度硬くないと洞窟を掘り進めることも、枢石を食べることもできないか。わかった。アンタの言うとおり、戦闘はなるべく回避する」
目指すは"エリダの枢石窟"最奥。洞窟の踏破および枢石喰らいの存在の確認。
枢石喰らいがいなかった場合、そのまま最奥に転移結晶を、もしも実在していた場合は気づかれないように引き返し、適切な場所で転移結晶を設置する。
「転移結晶の設置って、要は転移用の魔術紋章を地面に描くってことだろう。アンタが描いている間、オレが周辺を守るってことでいいんだな」
「そうなりますね。でも、万が一の時はヨシュアさんに描いてもらうことになりますから、一応設置の方法は知っておいてください」
リリエリはリュックから革製の鞄を一つ取り出した。ほどよくくたびれており、長く使用されていることが伺える代物だ。麻紐でしっかりと閉じられており、リリエリが片手で開けるのを難儀していると、見かねたヨシュアがそれを手にとって口を開いた。
中には薄い本が一冊。歪な形をしたチョークが数点。それから、無色透明な小転移結晶が一つ。
「本の中に紋章の見本が描いてあるので、それをチョークで描くだけです。大きさは不問ですが、両手を広げたくらいが推奨されています」
「じゃあ途中で見たあの紋章は、通常よりかなり大きかったんだな。オレの身長くらいの半径があった」
「そうですね。あの紋章は、転移や魔物避けの記述以外にも色々含まれていたように思います。この洞窟は転移ができないという前情報がありますから、描き込みを増やしてなんとかしようとしたんでしょうね」
「……アンタが用意した紋章は、その、大丈夫なのか?」
「そればっかりは、やってみないとなんとも。でも魔術紋章は相当進化していますし、そう滅多なことにはならない……はずです」
道中の魔術紋章が記されたと思しき十数年前と比較すると、紋章魔術は大きく発展を遂げた分野である。紋章そのものもそうだが、紋章を記すための道具の随分と改良されてきた。
今回リリエリが持ち込んだチョークもまた、先人たちの研究の賜物である。
「このチョーク、ヤグラサンゴをベースに三種類もの藻類を混ぜ込んでいるんです。魔力伝導はもちろん、魔物避けにも優れていまして」
「へぇ。それもアンタが?」
「…………いえ、これは買ったものです。サンゴを得ようとすると、海に行く必要がありますが、海には四回くらい転移を挟まないといけないじゃないですか。そういう採取依頼は、全然なくて」
魔物の討伐だったらちらほらあったりするんですけどね、とリリエリは心底悔しそうな表情を見せた。
移動手段のほとんどを転移結晶が担っているこの世界では、需要の集中も相まってそう簡単に転移を行うことは出来ない。正確には、転移自体は国民に広く開かれているのだが、申請に手間と時間がかかるのだ。
ギルド依頼の達成を目的とした申請は、私用での申請より簡便に審査が降りるものの、何度も転移を重ねることが面倒であるのは変わらない。
結果、実際の位置関係に寄らず、三回以上の転移は遠方であるという認識が人々の間に普及している。
「やっぱりそういうの、自分で作りたいと思うもんか?」
「そりゃそうですよ! 自分で採った素材で魔術紋章が描かれるのって結構楽しいですよ。それに、マドの助けにもなれますし」
「ふぅん」
ヨシュアはぽつりと相槌を打った。それきり言葉はない。
少し喋り過ぎてしまったかなとリリエリは反省した。ニッチな趣味を持っている自覚は、ないではないのだ。
直に腕も完治する。少し時間をとってしまったが、ここからが正念場だ。もう一日も経たないうちに、この冒険は終わりを迎える。
そうしたら。
ふとリリエリは、これから先のことに思いを馳せた。この冒険が終わったら、無事『断ち月』がギルドとして発足する。リリエリはそのメンバーとして、再び採取依頼に勤しむ日常が返ってくる。
そのとき私は、一人で冒険をするのだろうか?
今までずっと一人でやってきた。魔物と戦えないリリエリの特性は、他人の負担になるからだ。
現に今回の冒険だってヨシュアに負担をかけている。結果としてはつつがなくここまで辿り着けているのは、紛れもなくヨシュアの強さに寄りかかったものだ。そして強いということは、一人でも十分依頼をこなせる、ということで。
――『断ち月』は人数も少ない。これからは、それぞれで依頼をこなしていくことになるんでしょうね。
今までずっと一人でやってきた。だから、これからもきっと大丈夫だ。
リリエリはそう自分に言い聞かせた。いや、言い聞かせようとした。だが、ヨシュアの言葉がリリエリの思考を遮る方が早かった。
「……この依頼が終わったら、海に行ける依頼を受けよう。魔物はオレが適当にするから、アンタはその分たくさん採取してくれ」
リリエリの心情を感じ取った、訳ではないだろう。ただ、ただヨシュアもまた、自分の言葉を必死に探していただけなのだ。
不器用な人だと思う。リリエリだって他人のこと言えないけれど。
「……そうですね。その時もまた……一緒に冒険、しましょうね」
衒いも外連も飾り気もない。当たり前のように自分と共に冒険する未来を語るヨシュアの言葉は、だからこそ強い光でもってリリエリの行き先を明るく照らしている。
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