第35話 エリダの枢石窟⑱
砕け散る破片と共に、ムカデの身体は派手に地面を跳ねた。ガラガラと四方八方から岩の崩れる音が鳴り響く。土煙が急速に視界を遮っていく。
その最中、洞窟内を照らしていた魔本の灯りがふつりと消失した。
寸刻後に地に降り立ったヨシュアは、その勢いのままムカデの巨体を蹴り飛ばした。ムカデの落下から僅か二秒、ヨシュアにできる最速の行動であったが、一度地面に落下したという事実が変わることはない。
ムカデは金属のひしゃげるに似た音を立てながら暗闇の奥に吹き飛んだ。どうなったかはわからないが、既にこの場から失せたムカデなどどうでもいい、そんなこと気にする余裕などない。
「リリエリ! 無事か! 返事をしろ!」
舞い上がる粒子が無遠慮に口の中に入り込む中で、それでも声を張り上げた。
ヨシュアの持つ簡易紋章の灯りのみでは、土煙の立つ洞窟を照らしきることはできない。不明瞭な視界の中、ただただリリエリの声が聞きたかった。すぐにでも安全を確認しなければならない。強い強い焦燥が、ヨシュアの心臓を駆り立てていた。
――オレは約束を違えなかった。それなのに、どうしてオレは後悔している?
「リリエリ、リリエリ!」
二人で身を潜めた岩塊が、その中腹から崩れ落ちている。一際大きな塊を避けると、その下には色があった。桜色、そして鮮やかな赤。
頭部を庇うように交差した腕によって、リリエリの様子は判然としなかった。落石かムカデによるものか、巻かれたバンデージはズタズタに裂かれ剥がれ落ち、もはや保護具の意味をなさない。
剥き出しになった腕からはじくじくと血液が流れ滴っている。
だが、特にヨシュアの気を引いたのは、怪我や出血の程度ではなかった。辛うじて確認できる無事な部分の皮膚に、幾筋もの黒線が複雑な紋様を形どっている。
少女の腕を彩るには不釣り合いなそれに、ヨシュアは一瞬視線を奪われた。この洞窟に入ってから、似たようなものを幾度も見てきた。
例えば本の中で。あるいは地面の上に。
精緻に計算された美しさを持つそれは――魔術紋章だ。
「ヨシュ、ア、さん」
「リリエリ」
「ありがとう、ございます。約束を、守ってくれて」
リリエリはゆっくりと腕を開いた。
その下から現れた表情は、傷つき汚れていてもなお損なわれることのない、小さな花のような笑顔であった。
■ □ ■
「すぐに治りますから、心配しないでください」
幸いにして、リリエリに致命的な負傷ななかった。両腕は酷い怪我をしていたように見えたが、マドの魔本を使えば一時間程度で復帰することができるそうだ。
……とはいえ、大怪我は大怪我だろう。疑わしげな、そして心配に溢れた目をしていたヨシュアに、リリエリは苦笑しながら上記の言葉を告げた。
「血が沢山出ただけで、傷自体は深くないんです。……ちょっと時間はかかりますけど、まだまだ冒険に戻れます」
「…………わかった」
釈然としない、とデカデカと表情に書いてあったが、少なくとも言葉の上では引き下がることにしたようだ。
巨大ムカデが大暴れしたからか、それとも単にムカデ足が遅かっただけなのか。あれから魔物の逃走劇は終幕し、洞窟は再び静けさを取り戻していた。
差し迫った危険はない。そう判断したヨシュア達は、リリエリの治療のためにある程度開けた場所まで引き返したところだ。
マドの魔本には治癒の紋章魔術も存在している。例によって周囲の魔力を利用する仕組みのため時間こそかかるものの、互いに回復魔法が使えない彼らとってこの上なく有用な頁である。
両腕が使えないリリエリに代わり、治療の処置は全てヨシュアが行った。
ほとんどボロ衣になったバンデージを再利用し両腕の付け根を縛り止血、魔本で溜めた清潔な水で血を洗い落とす。……当然、リリエリの腕に彫り込まれた魔術紋章は灯りのもとに晒されることとなった。
手首から肘のあたりまで、両腕に彫り込まれた魔術紋章。環状の装飾がが何重にも描かれている。紋章魔術には詳しくないヨシュアでも、非常に複雑な仕事をしていることは感じ取れた。
足が悪いとは聞いていた。魔物と戦えないことも聞いていた。だがこの魔術紋章は聞いていない。
リリエリは、今まで一度だってヨシュアの前では腕のバンデージを外さなかった。
腕に視線を向けているフリをしながら、ヨシュアはこっそりとリリエリの様子を窺い見た。酷く気まずい表情をしながらあらぬ方向に目をやっている。腕にも変に力が入っており、緊張していることがわかる。
……まぁ、誰だって秘密の一つや二つあるもんだ。
ヨシュアは何も言わないことに決めた。そうして、今度はバンデージではなく包帯で、リリエリの腕を元あったように白い布で覆い隠した。入れ墨が見えなくなったことで、リリエリは目に見えて安心したようだった。
「終わったぞ。次はなにをすればいい」
「ありがとう、ございます。えと……魔本の、二ページ目を」
紋章の上に腕を置いて三十分、それを両腕分。それで治療は完了するらしい。
あまりに簡単な処置だ。だからこそ、これで良いのかと不安になる気持ちが拭えないわけだが。
「なあ、他には何をしたらいい。その怪我、痛むだろう。オレになにかできることはないか?」
「大丈夫です、ヨシュアさんが手当をしてくれたおかげで、もう殆ど痛まないですよ。あの、本当に助かりました」
「だが、なにか……そうだ、あのムカデ。アイツは薬になったりしないのか」
「ならないですねぇ。でも、ここまでしてもらえたらそれだけで十分ですよ。私だってそれなりの覚悟を持って洞窟に来ているわけですし」
それに、すぐに治りますから。リリエリはそう言って控えめな笑顔を見せた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます