第20話 エリダの枢石窟③



 なにかくる。

 初めは微かな羽音であった。耳を澄ませねばわからないほどのそれが、次第に暴風に変わり、間近に迫っている。


「洞窟で羽音……っ、蝙蝠、蝙蝠です! ロックバットかミヒメコウモリ……っ」

「多いな。とりあえずアンタはそこにしゃがんで。なるべく小さく」


 ヨシュアはひょいと片手でリリエリを持ち上げ、横穴のようになっている部分に押し込んだ。そうして自身がそこに蓋をするように覆い被さる。これでリリエリは、……リリエリだけは、すぐそこに迫る生きた暴風に曝されない。


「ヨ、」


 名前を呼ぼうとした。しかしできなかった。

 まるで羽音の濁流であった。目の前のヨシュアごとリリエリを呑み込んでしまうような、強い嵐が吹き荒れた。


 羽の音に紛れて、重量のあるものがぶつかりあう音が断続的に聞こえる。

 恐らく、今そこで飛び交っているのはロックバット。石のように硬い体を有するコウモリが、礫となって横薙ぎに降り注いでいるようだ。


 ガツ、と至近距離からその音が聞こえたと同時、リリエリの眼前にばたばたと液体が降り落ちた。開いたままの魔本の上、紋章魔術の一部が赤く染まっている。


「数は多いが、オレ達を攻撃したいわけじゃなさそうだ。あとコウモリにしてはちょっと硬い」

「ヨシュアさん、血、血が……」

「うん。……すまない、本を汚した」

「そんなことはどうでも良いんです、このままではヨシュアさんが死んじゃいます、応戦を……っ」


 ヨシュアは強い。リリエリが今まで見てきた冒険者の中で最も強く、常識外の戦闘力を有している。だからといって、ロックバットの突進を体に受け続けて無事でいられるはずがない。石礫を投げ続けられているようなものなのに。


 応戦すれば助かるかもしれない。森を行く中で見てきたヨシュアの身体能力と反射神経ならば、飛び交うロックバットなど苦にもしないだろう。


 だがヨシュアはそれをしない。理由なんて、明白だ。


 (私を、守るため……)


 不甲斐なかった。

 リリエリもまた冒険者の一人だ。ランクの差こそあれ、本来ならばヨシュアと肩を並べて魔物に立ち向かうべき人間のはず。それなのに今はどうだ。守られて、護られて、その間リリエリは何をしている?


 これが私がなりたい冒険者の姿か?


 (嫌だ)


「ヨシュアさん、動かないでくださいね」


 リリエリは魔本を閉じた。二人の間に灯っていた灯りが消える。

 完全な暗闇の中でも分かる、リリエリは知っている。この本はマドと二人で作ったのだから。

 次に開くべきは、石の章。


「ストーンウォール」


 どん、と強い衝撃。

 洞窟の床が伸び上がるように変形し、ヨシュアとロックバットとを隔てる壁が唐突に生み出された音であった。


 暗闇かつヨシュアの奥で起きている事象だ、何が起こっているのか目で見ることはできない。しかし知識はある。今、ヨシュアの向こうでは、ちょうど魔本と同じ横幅の石壁が生じているはずだ。


 しかし、足りない。本と同じ幅の壁一つきりでは、ヨシュアの身を守ることはできない。

 この魔本で使える紋章魔術はどれも小規模なものばかり。だから繰り返す。大気中の魔力だけでは間に合わない。何度も、何度も、リリエリ自身の魔力を消費してでも。

 

「ストーンウォール、ストーンウォール、ストーンウォール……!」


 リリエリが唱えるたびに衝撃が生まれ、石の壁が突き立つ。細長い壁を隙間なく、繰り返し重ねることで徐々に強固なシェルターを作り上げていく。


 紋章に置いた手の上に、パタリと生暖かい液体が落ちた。暗くて見えないが、きっとヨシュアの血だ。ロックバットが頭部にでも直撃しているのだ。


 怖かった。恐ろしかった。

 未踏の洞窟も、目の前を飛び交うロックバットも、異常な力を振るい魔物を蹴散らす"怪物"も、平気な顔して自身の身体を盾に使うヨシュアも。


 だがそれ以上に。

 何もできないまま守られ続けることが、私は何より恐ろしい。


 (きっと私の父親は、守られてばかりの冒険者じゃなかった……!)


「ストーンウォール、ストーン、ウォー、ル……っ」


 世界が揺れているような目眩を感じる。魔力切れが近いのだ。でも止めるわけにはいかない。どの程度壁ができたのか、ここからでは判断がつかない。

 可能な限り厚い壁を、ロックバットに壊されることのない強固な壁を。


 強く紋章を押さえつけたリリエリの手に、不意に温かい手が触れた。


「もういい。もう何もぶつからない。十分だ」

「怪我、は」

「ない。……わけじゃないけど、すぐに治る。アンタのおかげだ」

「良かっ、た」


 私でも、誰かの役に立てた。


 安心した途端、全身にどっと疲労が押し寄せる。リリエリは怠い腕を何とか動かし、石の頁を火の頁に戻した。

 ぱっと明るくなった世界で、額から腕から血を流したヨシュアの姿が見える。出血が多い。だが、ヨシュアの言葉通り、既に傷口は塞がりつつあった。


 壁の先では未だに荒れ狂う台風のような音が聞こえ続けている。しかし何重にも張った石の壁は揺るがない。ロックバットはもう、彼らにとって脅威とはならない。


 コウモリの狂乱は直に止むだろう。

 リリエリとヨシュアの勝利であった。

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