第17話 魔本
鬱蒼とした森を抜けると、そこは岩壁であった。
急峻な岩肌の一部に、ぽっかりと暗闇が開いている。簡易的な坑木や盛り土などの処置が施されていたが、朽ちて崩れていたりなど、長らく人の手が入っていない様子が伺えた。
"エリダの枢石窟"。
ひっそりと開けた森の中に、それはあった。
ここまで、さしたる困難もなかった。
人の倍ほどの大きさを持つ化け蜘蛛や、意志を持ち動く蔦や、鼓膜を引き裂くような鳴き声を上げる極彩色の鳥を、困難に含めなければの話であるが。
時に怪我すらも厭わずに魔物を退けるヨシュアの姿を、リリエリは間近でずっと見ていた。
辺りに張り巡らされた糸を引き千切りながら化け蜘蛛を蹴飛ばした姿も、棘だらけの蔦を無理矢理掴んでその辺の木々に巻き付けて無力化する姿も、鼓膜を守るような素振りもなく真っ先に攻撃を選択する姿も。
守られている、助けられている。頭では理解しているのに、それなのに身のうちに湧き上がる感情。
恐怖だ。リリエリはヨシュアに、確かな恐怖を抱いている。
だからといって、リリエリにできることはない。旅路は続く。"エリダの枢石窟"は、彼らの眼前で口を開いている。
■ □ ■
太陽はおよそ真上に位置していた。さしたる困難はないとは言ったものの、ここまでは少なくない距離があった。
あと二日と半分。帰路に転移結晶を使うことを思えば、悪くない時間だろう。
「怪我はないか」
「あ、えと、はい。ヨシュアさんのおかげで」
「じゃあ進もう」
まるで馴染みの飲食店かのようにずかずかと暗闇に立ち入ろうとするヨシュアを、リリエリは慌てて引き止めた。咄嗟に出なかった声に代わり、思い切り引っ張られたチュニックの裾が伸びる。パサパサしていた。まさか乾いた血ではないだろうが。
「ま、待って、ください。過去に人の立ち入りは記録されていますが、一応、洞窟ですから。安全を確認しましょう」
「必要か?」
「必要です。酸素がなかったり、有毒ガスが溜まっていたりすると困ります。流石のヨシュアさんでも、呼吸ができないと苦しいですよね?」
「……苦しい」
ヨシュアは一つ頷いて体の力を抜いた。どうやら納得してくれたようだ。
リリエリは安堵した。ヨシュアが歩みを止めてくれたことに、そしてヨシュアでも酸素がないと苦しいのだという事実に。
「だが、安全なんてどうやって確認するんだ。やっぱり一度オレが入ろうか」
「そんな決死の安全確認はいらないです。というか安全確認じゃないです、それは」
確かに守ると約束されてはいるが、そこまでされたら流石に困る。
ヨシュアの申し出を拒否しながら、リリエリは今自身が抱いている居心地の悪さの原因の一つに思い至った。恐怖がある、それだけじゃない、ひたすらにヨシュアに守られているだけの現状に、負い目を感じているのだ。
だが、今この場面においては、リリエリにだってできることがある。リリエリだって、数多の依頼を乗り越えてきた冒険者なのだから。
「ここは私に任せてください」
ほんの少しだけ得意気に取り出されたのは、厚みのある革装丁の本であった。マドの魔本。親友の心遣いがたっぷり詰まった、リリエリの秘密兵器である。
「この本の中には冒険に役立つ紋章魔術がたくさん入っているんです」
言いながら、リリエリは魔本を開いた。迷いなく開かれたそのページには、赤いインクで描かれた魔法陣が一つ。手元の一箇所が欠けている、どこか不完全に見えるものであった。
「この欠けている場所に指を添えると、紋章魔術が起動します」
リリエリの親指が欠けた魔法陣を補い、擬似的な円環が作られる。その瞬間、ぱっと微かな光が灯った。陽光に紛れてほとんど見えないが、小さな炎が魔本の上で朧気に揺らめいている。
「便利な本だ」
「でしょう」
マドの力作が褒められるのは我が事のように嬉しい。リリエリは思わず笑顔になった。本人は気づいていないことだが、エリダ村を発って初めて見せた笑顔であった。
「しかしアンタ、魔力で足を動かしてるんだろう。紋章魔術なんて使っていいのか。魔力を温存したほうがいいんじゃないか」
「この紋章、特別性なんですよ。サザレセキシャクという植物を磨り潰したインクを使っていまして、大気中に存在している魔力を吸収する性質を持っています。なので、起動するのにほとんど魔力を使わないんです」
余談であるが、このサザレセキシャクはリリエリによって採取されたものである。この魔本は、リリエリとマドの共同制作なのだ。
「細やかな火力しか出ませんが、その代わり環境に変化があれば直ぐに立ち消えて私達に危険を知らせてくれます」
さぁ、洞窟に入りましょう。
リリエリはマドの魔本をぐっと握り、震えそうになる自分の腕を諌めた。「そうだな」と変わらぬ声色で言うヨシュアに、どうか気づかれませんようにと祈りながら。
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