第10話
朝の支度を済ませると、オージスお兄様とカエサルお兄様が朝餐に迎えに来て下さった。
私はアスランを抱っこして、「いい子でお留守番していてね」と撫でてから降ろそうとしたけれど、なぜかアスランは私にしがみついて離れようとしない。
食事を済ませたら、この部屋には戻らずに皆で舟遊びに向かう予定なので、アスランには部屋で休んでいてもらうつもりでいたから、私はどうしたものかと困ってしまう。
お兄様達に、「どうしましょう」と相談したものの、お兄様達も子のアスランの様子は想定外だったようで、「湖の中心は普段見慣れていないだろうし、そうしたら一面の水に驚いて暴れてしまうかもしれないからね……暴れた拍子に湖に落ちてしまったら助けられないし……」と難色をしめした。それも一理ある。
私が「アスラン、お留守番は嫌なの?」と問いかけると、アスランは私の胸許に顔をすり寄せて鼻で鳴いてから、何かを訴えるような瞳で私を見つめてきた。
その姿を見てしまうと、置いておくのが可哀想になる。それにアスランは聖獣なのだ。何かを感じ取っているのかもしれない。考えた末に、「首輪とリードを付けて連れて行けませんか」とお兄様達にお願いした。
お兄様達も、アスランの私への慕いようを見ていて引き離すのは可哀想に思えたらしい。「ならば、アスランをしっかり見ているんだよ」と許して下さった。すると、私から離れようとしなかったアスランは、あっさりと私の腕から降りて今度は足許にまとわりついてきた。
「アスランは現金だな、ついて行けると分かったら途端に態度を変えるんだから」
カエサルお兄様が半ば呆れたように笑うけれど、そこに嫌味はない。むしろ、私に懐くアスランを可愛らしく思っているように見えた。オージスお兄様も同じ気持ちらしい。「ペルセポニアに弟が出来たようだね」と笑っておいでだった。
食堂に行くと既に他の全員が揃っていて、「おはようございます。遅れて申し訳ありません」と謝ると、お母様が「紅茶が冷めない程度しか待っていないわ。ペルセポニアにとって初めての舟遊びを共にするのだもの、楽しみで居ても立ってもいられなかったのよ」と優しく許して下さった。
そうして家族揃ってなごやかな朝餐を終え、お母様と外行きのドレスに着替える。その間、アスランはお兄様達に見てもらっていた。
たとえ今は狐の姿をしていても、夜中に少年としての姿を見てしまったのだから、着替えを見られるのは恥ずかしい。アスランもそこは理解してくれているらしく、人懐っこい子狐らしさを見せてお兄様達と遊んでいたようだった。
皆の準備が済むと、別荘を出て馬車に乗り、少しして湖にたどり着いた。初めて見る湖は、まるで海のように広くて水も澱みなく澄んでいて美しい 。
岸辺につけられた船は予想より遥かに大きくて、まるで旅客船みたいだ。錆の少しもない手入れの行き届いた船の白さが湖と相まって、絵に描いたらさぞかし綺麗な作品になりそうだった。
「ペルセポニア、足許は危ないだろう。私がアスランごと抱いて船に乗せよう。おいで」
お父様が晴れやかな笑顔で私に手を差し伸べて下さる。「嬉しいです。ですが、アスランも一緒ですと重くはないですか?」と気遣うと、お父様は「大丈夫だよ、これでも鍛えているしね。それに、小さなペルセポニアと更に小さな子狐だ。大した重さではないよ」と仰って、軽々と抱き上げて下さった。
船に乗り込んでデッキにいると、湖の上を走る風が涼しくて気持ちいい。アスランも急ごしらえだった首輪にも嫌がる素振りを見せずにおとなしくしてくれている。
「ペルセポニア、湖を良く見てごらん」
私はアンフォルトお兄様に促されるままに湖をのぞきこんだ。すると、透明な水に魚が泳いでいるのが見える。
「大きなお魚がいます、お兄様」
興奮気味に話しかけると、アンフォルトお兄様は私に「せっかくだし、釣りをやってみようか」と誘って下さった。
「釣り……ですか?」
釣りというものが分からない私にアンフォルトお兄様は、「釣り竿というものに糸と針、そしてエサを付けて魚がエサに釣られて針にかかったところを釣り上げるんだよ」と教えて下さった。
「でも、水辺に近づくのは少し怖いです」と言うと、アンフォルトお兄様は「落ちないように後ろから抱きしめているから、大丈夫だよ」と安心させて下さった。
お兄様達に手伝ってもらいながら教わった通りに準備をして、釣り糸を垂らす。すると、すぐに何かが釣り針に引っかかった。思っていたより重い。
「引っ張られます、お兄様」
「怖がらないでいいよ、僕も引き揚げるのを手伝うから。ウィルフレッド、網を持ってきてくれるかな?」
「任せて下さい、アンフォルト兄上」
お兄様達に助けられて引き上げると、それは銀色に輝く立派な魚だった。ぴちぴちと元気よく跳ねる姿に驚いて怖気づいてしまうものの、お兄様達は揃って「ペルセポニアには釣りの才能もあるんだね」と口々に褒めて下さる。
その活きが良い魚を見て、アスランがしきりに匂いを嗅いでいる。
お兄様達は、「ペルセポニアの初めての釣果だから、好きにしていいんだよ」と言って下さった。私が「アスランに食べさせてあげたいです」と言うと、私達を見守っていたお父様も「ならば、別荘に戻ったら、焼いて身をほぐしたものを食べさせてやりなさい」と言って下さった。
それから、慣れない釣りに疲れて奥の方で休んでいると、何やら騒がしい。声の方に行くと、見たこともない人魚のような水の妖魔が船を襲っていた。お兄様達も帯刀していた剣で立ち向かっている。
妖魔は低く恐ろしい女性の声で、「魂の輝きが一際優れている姫を寄越せ」と言う。湖面が波打ち、船が大きく揺れた。
と、私に抱かれていたアスランが飛び出した。私は危ないと思いリードを引こうとしたけれど、間に合わなかった。
アスランは船首に走って行って、妖魔と何かを話し出した。聞いたことのない言語は家族の皆も護衛の騎士も聞き取れないものらしく、私以外の皆には狐の鳴き声としか聞こえていないようだ。もしかすると、人の言葉ではないのかもしれない。
──それから、どれくらい時間がかかっただろう。結局、妖魔は誰も犠牲にせずに湖の底へと姿を消した。
私は過去世で贄にされた恐ろしい経験を思い出していた。
怯える私に、アスランのみならず家族皆がなだめてくれる。ペルセポニアは皆で守るよと。
慰められて、ようやく気持ちが落ち着いてくる。そうなって気づくと、オージスお兄様が妖魔との戦いで左腕に傷を負って衣服に血をにじませている。
私は命がけで助けようとしてくれたオージスお兄様の役に立ちたいと、大勢の護衛や家族が見ているのも構わずに、手当てをするべく傷に手をかざした。そこに迷いはなかった。
みるみるうちに癒されてゆく傷に、オージスお兄様のみならず居合わせた皆は驚きを隠せないようだった。目を白黒させて、何が起こっているんだと言い交わす。
その中で、治癒を受けたオージスお兄様は「ペルセポニアの潜在能力は本物だったんだ!」と喜んでお父様達に話しかけた。お父様達も、「あの謎の潜在能力は、このような素晴らしい力を意味していたのか」と感嘆している。
これは、どうせ遅かれ早かれ気づかれていた事だ。
私は、勇気を出して「お父様、お母様、そしてお兄様達──私は、冥府の神であるハデス様と、その奥様である豊穣の女神ペルセポネー様から祝福を受けて今の生命を生きるように天国から送り出されました」と、正直に話した。
「……神からの祝福?」
お父様が呟く。皆が息を呑んでいる。
「はい。……私は過去世で家族に森へ捨てられて、拾われた先で、黄金の狼の生け贄にされて、7歳で死にました。魂は冥府の天国に送られましたが、百年経って新しい人生を始める時が来ても、魂が負った傷は癒えませんでした。それで、私を哀れに思っていて下さったペルセポネー様が、ハデス様と共に──今度こそ幸せに生きられるようにと、祝福を下さったのです。私が見せた力は、その祝福のものです」
「……にわかには信じがたいが、私達はオージスを治癒するペルセポニアを目の前で確かに見た……あれは人の為せる業ではない」
「そうですわ、陛下。ペルセポニアが偽りを言っているようには思えません」
「父上、僕はペルセポニアから治癒を受けて、不思議なあたたかい力が流れ込んでくるのを感じました。ペルセポニアは真っ直ぐな良い子ですから嘘なんて言わないでしょうし、僕が感じた力は本物です。潜在能力を測った時の事も考えれば、神様から力を授かったというのも納得がいきます」
「そう……そうだな。神からの祝福を受けているのならば、全て合点がいく。そして過去世で生け贄にされた事で、今でも狼を恐れている事も。幼子のペルセポニアが皇家の紋章だった黄金の狼に泣いた事も……」
「ペルセポニア、あなたは私達家族が授かった娘であり、大切な宝物のような子よ。奇跡を起こしても──たとえこの先、力を使わず隠して生きてゆく事を選んでいたとしても、愛する我が子である事に変わりはなかったわ。それでもオージスに惜しみなく力を使ってくれて、ありがとう」
「お父様、お母様……お兄様……信じて下さるのですか?」
──それでも私を受け容れて、下さるのですか。
「もちろんだ、ペルセポニア」
お父様が力強く頷いて下さる。そして家族は皆、私の事を神から祝福を受けた愛し子だと喜んで下さった。同時に、過去世でつらい思いをした私に、何が起きても味方だと、今生では決して怖い目に遭わせないと約束してくれた。
それから、船を岸に寄せて皆で降りて、シートを広げて軽食とお茶を用意させて、私に「力を使って疲れただろう」と労って下さり、休むように勧めてくれた。湖からの風が心地よい。
私は、家族に秘密を持っていた事の後ろめたさから解放されて心持ちが軽くなるのを感じた。
優しい皆に囲まれながら軽食とお茶を頂く。その後、お母様の膝枕でアスランを抱きながら、安らかな深い眠りに落ちた。
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