第3話

目の前の鏡に、薄ぼんやりと暗い地下空間のような景色が映っている。私が住み慣れた世界とは、まるで違う場所。初めて見る世界。


鏡が映す世界を変えた事に、ありえないと驚いたけれど、映されている世界そのものには恐怖を感じないのはなぜだろう。むしろ、その向こうに行かなければならないような必要性を感じる。


私は、息を呑んで鏡に手を伸ばした。そして触れたはずなのに、何の感触もなく映っている世界へと手が入る。そうして吸い込まれるように、私は鏡の向こう側へと入り込んでしまった。


地下空間は一本の道になっていた。不思議な燭台に照らされたその道を歩き、緩やかな上り坂を登ってゆく。


すると、視界がひらけて明るい世界に辿り着いた。


一面のお花畑に、無数の小さな光の玉がゆらゆらと飛んでいる。まるで戯れているように、玉は思い思いに宙を舞い浮かんでいた。


その光景に驚いていると、一本だけ木があった。美味しそうな柘榴が実っている。お腹がすいていた私は、思わず柘榴に手を伸ばした。


「──それは冥府の食べ物だから手を出してはならない」


「えっ……?」


それまで、一面のお花畑には光の玉しかなかったのに、男の人の姿が突如現れた。すらりとした体躯に、黒い髪と瞳は私が今まで見てきたどんな黒よりも深い黒色で、切れ長の眼と薄い唇が男の人を思慮深い容貌に引き立てている。


こんなにも美しい男の人を、私は見た事がない。なのに、どこか懐かしい。


「あなたは……誰ですか?」


見慣れない異国風の衣装に身を包む男の人に訊ねると、彼は微かに目を細めて、「私はハデス──この冥府を治める神だ」と答えた。


ハデス、様。魂を裁き、天国や地獄へと導く冥府の神様であり、過去世で魂に傷を刻みつけられていた私を哀れんで下さったお方だ。魂だった頃の私にはハデス様のお姿は判別出来ずにいたけれど、こうして向き合うと、確かにあの時のハデス様だと思い出せる。


ハデス様は私を真っ直ぐに見つめて、音もなく滑るように歩み寄って来た。


「……もう7歳になるのか。あの時の傷ついた魂が今こんなにも輝いているとは感慨深い」


勝手に冥府へ入って来た私を叱るふうもなく、むしろ嬉しそうだ。


次いで、軽やかな白い衣をまとった女の人も現れた。私と同じ、透き通るような白い肌と金色の髪に蜜色の瞳を持つ完璧な美貌。あまりの美しさに幼いながらも見とれていると、その人は微笑みをたたえて「その様子だと、全てを思い出したようね。それでも歪みなくある様子を見ると、今のあなたは愛されて生きていると分かるわ。本当に良かった。──私は豊穣の女神ペルセポネー、そしてハデスの妻」と語りかけてくれた。


「……ハデス様と、ペルセポネー様……」


そうだ、かつて読み聞かせてもらった童話では、ハデス様がペルセポネー様を冥府に連れてゆき、ペルセポネー様が冥府の柘榴を口にした為に、一年のうち、食べた柘榴の数の月だけ冥府に留まる事になっていた。だからペルセポネー様も、冥府の天国で私の魂に目をかけて下さっていたのだろう。


「──お腹がすいているの? ならば、人間の食材で料理を作らせるから食べなさい」


ペルセポネー様が優しく言って下さる。


「お腹は少しすいています。……でも……」


けれど、朝食前に来てしまった私は、戻ればご飯が用意されているであろうと遠慮しようとした。


するとハデス様は、「心配ない、ここで腹が満たされても元の世界に帰れば空腹も戻る」と言って下さった。それも不思議な話だけれど、ここで遠慮をしてしまうのも却って失礼なように思える。それに、お腹がすいているのは確かだし、冥府で出されるお料理への純粋な興味もあった。


「……あの、頂いても良いんですか?──ありがとうございます」


「ちょうど私達も食事の頃合いだ、積もる話もあろう。せっかく訪れて来たのだから、私達と共にすればいい」


そして、私はハデス様とペルセポネー様に食事をご馳走になる事と決まった。


冥府特有なのだろうか、落ち着いた静けさの漂う食卓につくと、サラダとスープが影のような冥府の従者によって運ばれてきて、続いてコクがあってお肉がほろほろになるまで煮込まれたビーフシチュー、軽い食感のパンケーキとあたたかいハーブティーが出された。これらを作るのは時間を必要とするだろうに、それを感じさせない。人間の世界とは時間の流れ方が違うのだろうか。けれど、どれも子供の私が食べても本当に美味しかった。「美味しいです」と言いながら食事を進める私を、ハデス様もペルセポネー様も、一緒に食事をしながら優しく見守って下さる。


最後のハーブティーを、皇国の末姫に生まれた事や大好きな両親の事の他、お兄様達がそれぞれ得意としている事や私を可愛がってくれている事等、訊かれるままに生まれてから今までの間で経験してきた事を話しながら口にしていると、ハデス様が何か思うところがある様子で「これからは手鏡でもいいから鏡を持ち歩くようにしなさい。どれほど小さな鏡でも冥府には繋がり渡る事が出来る」と仰った。私は、それもまた不思議な事だと思いながらも、素直に頷いて「分かりました」と約束した。


ハデス様が何を思われたのか、大人の──それも神様の──複雑な思考を読み解くには、私の知恵では力が及ばないものの、ハデス様の仰る通りにして間違いが起こる事はないはずだ。私の為を思って勧めて下さっている事は子供心にも伝わっていた。


そしてお腹が満たされると、ハデス様とペルセポネー様に導かれて大きな大きな姿見のある部屋に連れて行かれた。


「さ、ペルセポニア。この鏡を見ながら地界にあるあなたのお部屋を思い浮かべなさい」


ペルセポネー様に言われて、私は出来るだけ集中して自分のお部屋を思い浮かべた。優しい色味の家具と壁紙に、まっさらなベッドと可愛いクッションが添えられたソファー。──すると、鏡に映っていた冥府のお部屋がぐにゃりと歪み、すぐに私の見慣れたお部屋が映し出された。多分、冥府を訪れた時のように、手を伸ばせば元の世界に戻れるのだろう。


「ハデス様、ペルセポネー様、ありがとうございました」


頭を下げると、ハデス様が小さな私の頭を撫でて、「また何かあればいつでも訪れるといい。得ることの出来た家族を愛されている以上に愛し、綺麗事だけではない世界でも誠実な慈愛を忘れないように」と仰って私を見送って下さり、私は「はい、そのお言葉を忘れないようにします」と答えて、肩を寄せ合うようにして見送って下さるハデス様とペルセポネー様にお辞儀をして、大きな姿見から地界に戻った。


地界はちょうど起きる時間になっていた。快晴の朝日がきらきらしてお部屋を照らしている。そしてハデス様の言う通り、あんなに色々と美味しいものを食べたのに、ちゃんとお腹がすいていた。


そこでメイドが朝の世話をしにお部屋へやって来た。洗顔と着替えに髪を結う世話を受けて、身支度を整えてメイドに付き添われながら家族の揃う食堂に向かう。


「おはよう、ペルセポニア。7歳の誕生日おめでとう」


「おはようございます。ありがとうございます、お父様」


喜色を浮かべて真っ先に言葉をかけてきて下さったお父様にお礼を言うと、お兄様達が口々に「おめでとう、ペルセポニア。一番に祝うのは父上に譲ったけれど、君を祝う気持ちは母上も僕達も勝り劣りはないよ」と言い、お母様もあたたかな笑みで「おめでとう、ペルセポニア。ついこの間まで幼子のように思っていたけれど、立派な姫として育ってくれたわ」と噛みしめるように語りかけて下さった。


「お母様、お兄様達も、ありがとうございます。たくさんの優しさを頂いて、この日を迎えられました」


「そう感じてくれているのならば、私達はペルセポニアの幸せを心から喜べるというものだ。──さ、今朝は特別にお前の好きなものばかりを作らせたからね、冷めないうちに頂こう」


「はい、ありがとうございます。お父様」


並べられるお料理は、どれも私を思いやってくれているのが伝わってくるものばかりだ。私は夜のうちにハデス様とペルセポネー様にお会いした事もあってか、いつになく心が朗らかに柔らかくなっている自分を実感していた。


それから私は朝餐の場で、「なぜだか今朝のペルセポニアは一段と美しい」と褒めそやすお父様に、いつでも持ち歩ける鏡が欲しいとお願いした。


お父様は、「ペルセポニアは女の子なのだから身だしなみに気を使いたいのだろう」と何の疑いもなく快諾し、持ち歩くのにも便利な鏡を手配しようと言ってくれた。


そして「7歳の誕生日は盛大に祝おう」と意気込む家族からの言葉に、私は「お祝いしてもらえる事が嬉しいです」と、今の人生に生まれて初めて、心がほどけたように屈託のない笑顔が出来た。祝福されて生まれた事、愛されて生きてこられた事が幸せだと、言葉には上手く出来ないけれど幸せだった。


皆がそれを眩しそうに見て喜び、私は「プレゼントは僕達からだけではなく国内外から部屋を埋め尽くす程に来ているよ」と話すお兄様達の、その嬉しそうな様子にあたたかい気持ちで満たされたのだった。


過去世では7歳で捨てられ、裏切られて無惨に死んでいった私が、同じ7歳になった今、家族に囲まれて優しい時間を生きていられている。まだ子供の私に返せるものは限られているだろうけれど、それでも愛を与えてくれる存在に、これからは躊躇わず向き合って何かを返していけたらと思った。

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