第2話
* * *
あたたかく暗い世界で、様々な人の優しい声を聞いた。
何を話しているかは分からないけど、穏やかにかけられる声は慈愛に満ちている。
私は、この世界が永遠に続くといいと思っていた。温もりに包まれて、とくとくと子守唄のような心音が伝わってくる。ここにいれば、何者からも守られると信じられて安堵出来ていた。
けれど時は訪れる。
──私は、あたたかい安らぎの闇から、まっさらで光に満ちた世界に抜け出した。
歓声が聞こえる。でもその歓声は、昂っていても、おぼろげな記憶にある狂気的なものとは全く異なり、ただひたすら喜びに満ち溢れて私の誕生を喜んでいた。
けれど、私はそれを理解出来なくて、周りの昂りに怯えて力の限り声を上げて泣いた。それでも歓声は泣くほどに高まってゆく。何を言い交わしているのか分からない言葉は、私の恐怖心を煽った。
なぜ私はこんなにも恐れているのだろう。ただ、まだはっきりと見えない目からは周りの人達の表情が読み取れなくて、沸き立つ声が怖い。
泣いていると、女性らしき人が私を抱っこする。そして私に「ペルセポニア、ようやく会えたわ。愛しいペルセポニア」と語りかけてきた。──ペルセポニア。その名を呼ばわれた瞬間、自ずと周りの声も言葉として聞き取れるようになった。
「とても元気な女の子ですわ、皇后陛下。何て愛らしい赤ちゃんなのでしょう」
「待望の女の子ですわね、よくぞ陛下にはここまで頑張られてこられましたこと、心よりお祝い申し上げます!」
「イリョス帝国の輝ける二つの太陽に授かられた皇女殿下ですわ、きっと素晴らしい姫君にお育ちあそばされる事でしょう」
──そして私は、イリョス帝国という国の末姫として生まれたことを知った。
言葉は全て、私を寿ぐものだった。味わった事のない純粋な喜びを向けられている。
「陛下、どうぞ私達の娘を抱いてあげて下さいませ」
私を産むために耐え抜いた女性が、僅かに掠れた声でありながら満たされているのが明瞭に分かる口調で誰かに話しかける。そして、私は包み込む腕から力強い腕へと移された。
「ペルセポニア……皇后よ、よくぞ産んでくれた。ここまでどれほど、そなたには苦労をかけた事だろう。……何と愛くるしい娘だ」
噛みしめるような口ぶりは、幸福と慈愛、そして感謝に満ちている。傍には、どうやらまだ若い男の人達も寄り添っているらしい。口々に「僕にも抱かせて下さい」と、はやる心を抑えきれない様子でねだっている。
一体何人の人達に囲まれているのか、聞こえてくる声が多すぎる。だけど、皆が皆、私を喜んでくれているのは分かった。
──私は生まれても良かったのだ。この世に生まれて、喜んでもらえている。私を邪魔だと思う人は、ここにはいない。なぜかそう思う。
「陛下。私がこの子を身ごもった時に不思議な夢を見ましたわね。人の領域を超えるお美しい方が現れて、生まれてくる子にペルセポニアと名付けるようにと。あのお方は女神様に違いないと……」
「ああ、二人で同じ夜に同じ夢を見たのだったな。あまりの神々しさに、かけらの疑念さえ抱けない程だった。──それでも、本当に女児が……これ程までに成長が楽しみな赤子が生まれるとは」
「ええ、陛下。私達は今まで五人の子供に恵まれましたが、六人目にして初めての女の子の誕生ですわ。子供達は皆愛しておりますけれど、私の年齢的に最後の機会で女の子を授かれました事、夢で見た女神様の恩恵に違いありません」
感極まった声は涙混じりだ。「そうだな、子は皆愛おしいものだが、こうして皇后が健やかであってくれたお蔭で初めて女児に恵まれた」──そう応える男性の声も、しみじみと幸せを噛みしめているふうだ。
二人を囲む若い男性らしき人達も、こんなに美しくて可愛い赤ちゃんは見たことがないと、しきりにはしゃいでいる。どうやら、二人の子供達らしい。
「はじめまして、ペルセポニア。君の兄だよ。これから仲良く暮らしていこう」
「ペルセポニア、君の事は僕達が守るよ。僕達の可愛い姫君」
皆が私を祝ってくれて、ひたすら優しい。ずっと怖い夢を見ていた気がするけれど、明るい世界は愛を惜しみなく私にそそぐ。特に金色の髪と蜜色の瞳を持ち、日々健やかに成長する私を皆はこぞって美しいと褒めてくれた。
「ペルセポニアは、離乳食をしっかり食べたか?」
お父様が子供部屋を頻繁に訪れる。乳母達も慣れたもので、にこやかに「はい、陛下。本日は野菜粥に白身魚の身をほぐしたゼリーを残さず頂いて下さいました。好き嫌いもなく、本当に素晴らしいお子様ですわ」と答える。お父様はそれを聞いて満足そうに頷き、お腹が満たされてまどろむ私が寝ているベビーベッドを覗いて、そっと私の頭と頬を撫でた。
そんな日々は、生まれる前に夢で見ていた冷たくて悲しくて痛くて怖い世界とは大違いだった。
私は、その落差に戸惑いながら愛情を享受して順調に育った。五人いるお兄様達も暇さえあれば、常に私を気にかけてくれる。
お兄様達は、第一皇子のお兄様の名前がアンフォルトと言い皇太子になっており、第二皇子のお兄様はオージスと言い身体能力が高く剣術や武術に秀でていて、第三皇子のお兄様はウィルフレッドと言い薬学に興味を持って熱心に学んでおり、第四皇子のお兄様はカエサルと言い勝ち気で負けん気が強くオージスお兄様について剣術や武術を習い、そして第五皇子のお兄様がナイトベルツと言って私と歳も近い為か一番の遊び相手になって下さっていた。
そして生まれて三年の月日が経った頃だ。私は皇家の紋章を掲げた特別な部屋で、生まれ持った潜在能力を測定する事となった。
なのに私は、皇家の紋章である黄金の狼の印を初めて見たところ、どうしてか激しく怯え、怖いと泣き叫んでしまった。
狼は怖いのです、痛いのです、誰も助けてくれません。──私は拙い言葉でそう訴えた。
すると、お父様とお兄様達が、怯える私の為に、歴史ある紋章を黄金の狼から白銀の獅子に変えてしまった。
「皇家には尊重すべき歴史と伝統がある。だがしかし、それに固執してかけがえない家族を脅かしてはならない。息子達よ、そうだろう?」
お父様が厳かに問いかけると、アンフォルトお兄様が追随した。
「はい、父上。英断です。ペルセポニアはまだ三歳の幼さでありながら紋章の狼に怯え泣いております。おそらく成長しても紋章を好ましく思える日は訪れないでしょう。ペルセポニアも皇家の一員、紋章は敬意を払えるものに変えて然るべきです」
すると、他のお兄様達もまた揃って賛同したのだった。
これには家臣のみならず全ての貴族や国民も泡を食って驚いたらしい。
「伝統と格式には相応の理由があってこそ、受け継がれてまいりましたものでございます。皇女殿下には、幼さゆえ狼を恐ろしくも見えましたのでしょう。そうです、単に幼さゆえにすぎませぬ」
家臣からは、そうした反対意見ももちろん出てきた。しかし、お父様はそれを跳ね除ける強固な意思を見せた。
「皇女の怯え方を見なかった者の言える言葉だな。あれは、ただならぬ恐れを抱いて泣いて幼いながらも必死の言葉で訴えたのだ。それを単に幼子だからと片付けるとは、どれほど皇女を軽んじておるのか」
そう一喝して、私の為に即断してくれたのだ。
そしてお父様やお兄様達は優しく話しかけてきた。
「もう怖いものはなくなったよ。ペルセポニア、何も恐れなくていいんだ」──と。
それからしばらくして、狼の紋章に怯えて出来なかった潜在能力判定が改めて行なわれた。六芒星の水晶の板の上に立たされ、聖職者による鑑定がなされる。
「ペルセポニア、獅子は恐ろしくはないか?」
お父様が心配そうに訊ねてきて下さる。私は新たな紋章を見つめてから、「怖くありません」と、はっきり答えた。本当に何も怖くなかった。見事な銀色の獅子の刺繍や飾りを美しいとさえ思った。
周りには安堵が広がり、厳かに測定が始まる。
すると、私の潜在能力は凄まじかった。測定に用いる魔道具が計測不能でおかしくなる程に。
聖職者によると、ペルセポニア皇女様には神力が宿っているとまで言われたようだ。
両親とお兄様達はもちろん驚き、──だけど誰一人として妬みも利用もしようとせず素晴らしい子供だと受け入れて更に愛情をそそいでくれるようになった。
「ペルセポニア、まだカトラリーを扱うのは難しいだろう。僕が肉料理を切り分けるから、フォークさえ使えればいいんだよ」
オージスお兄様が気を遣ってくれると、ウィルフレッドお兄様が「ペルセポニア、今日の晩餐のデザートは君の好きな果物をふんだんに使ったものだから、果汁がドレスを汚さないようにナプキンを着けようね」と世話を焼いて下さる。
一事が万事この調子で、私は常に宝物のように大切に接してもらえていた。
なのに、それを素直に受け取るよりも先に違和感をおぼえるのだ。私の知る何かと違う、と。
自分でも分からないものの、愛情に満たされながら育てられる事は確かに幸せなはずなのに、私は、なぜ見返りなく大事にされて愛される事に戸惑うのか。それが疑問であり、大切な人達を信用出来ていないかのようで心が苦しかった。
自分でも分からない。
でも、家族からの言葉も眼差しも手のひらも、すべてあたたかかった。
私は、そのぬくもりに満たされながらも、自分で自分が分からないというもどかしさを味わっていた。
それでも愛されながら時は経ってゆく。言葉を覚えてゆき、健やかに育つ身体は色々と動けるようになり、生まれ持った美貌は顕著になりつつあった。
透き通るような白い肌に、波打つ黄金色の艶やかな髪と神秘的な蜜色の瞳。紅をさしたような常に潤っている赤い唇。鼻筋は綺麗に通っており、微笑みをたたえれば誰もが溜め息をつく穏やかに整った目許。
それはお父様にもお母様にも似通ってはいない容貌だった。お二人とも美しく整った造作をしているけれど、私の容貌は人知を超えたものとして見なされていた。
それをなぜだろうと思いながら育った中、私は、7歳の誕生日を迎えんとする深夜零時に真実の夢を見たのだった。
──それは残酷な真実を知らせる夢。義理の姉妹から罵られ森に捨てられた夢、拾われた先の村で熱狂の渦に包まれながら狼の贄にされた夢。
──そして最後に、冥府の神ハデス様と豊穣の女神ペルセポネー様から癒えない傷を負った魂として、幸せに生きられるように祝福を受けた夢を。
私は、誰もが褒めそやす美貌が、女神ペルセポネー様から受けた祝福によるものだったと、自分の容姿の秘密を知った。
三歳で測定を受けた時には過去世や冥府、天国での記憶はなかったから、どう褒められようとも何も分からず実感もなかったものの、冥府の神ハデス様と、豊穣の女神ペルセポネー様から祝福を受けていたのだから、それは神力も宿っていて不思議はないだろう。私はようやく合点がいった。
同時に、なぜ自分が家族でさえ心から信頼出来ずにいたのかも悟った。全ては裏切られた過去世のせいだったのだ。
……今は違うのに。確かに愛されているのに。私は夢の最後に、自分が生まれた時の周りの心底からの喜びを見て、歯噛みした。たとえ今幸せに暮らしていても、魂が過去世で負った傷は無意識に私を蝕んでいたのだろう。
──けれど全てを理解した私は、もう違う。過去世の呪縛から自分を解き放つべき時が来たのだと自覚した。そうだ、私は新しく生まれて、新しい人生を家族に包まれながら生きてこられたではないか。過去世の自分の不幸は悲しいものだった、それは確かだけれど──今生で私が家族から幸せであれと願われているのも事実なのだ。
そうして、夜から朝までの限られた眠りの時間にすぎないにもかかわらず、長い長い時をかけたような夢の果てに目覚める。
全てを知った、思い出した私がベッドから抜け出して鏡台に向かうと、鏡に映る全てがみるみるうちに様変わりして、異空間への道が開かれた。
冥府に通じる、道が。
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