乙女の旅路〜末姫が紡ぐ再生の唄〜

城間ようこ

第1話

ある日、私は突然に姉妹から馬車でピクニックに行こうと誘われた。


伯爵家の離れに住んでいた私にとって、お父様と共にお屋敷の中の広いお部屋を与えられて暮らしている姉妹は、私が7歳になった今までに話した事もほとんど記憶にない程遠い存在だった。


かと言って、お父様から冷たくされていた訳でもない。着るものも食べるものも、姉妹達と比べれば随分と質素だけれど、困ることなく生活出来ていた。──姉妹のみならず、お屋敷の人達からの冷ややかな無視はあったものの。


それでも、この日は姉妹も離れている私の部屋を朝から訪れて、笑顔で誘ってくれた。


それまで、同じお屋敷の中でも心は遠く離れて、お父様と暮らせる姉妹を羨ましく思っていても、お屋敷で見かけても言葉をかけることさえ憚られて、ただ眺めるだけだったから私は驚きながら喜んだ。


姉妹は、バスケットをメイドに持たせて馬車に乗り込み、私にも乗るように促してきた。馬車に乗るだなんて生まれて初めてだ。私はどきどきしながら乗り込んで、あとは失礼のないように、なるべくおとなしくしていた。


──だが、笑顔で誘ってきてくれたピクニックに赴くのに、姉妹はなぜか私に対して一言も話しかけないままだった。バスケットの中身も、サンドイッチや飲み物が入っているらしかったけれど、全て姉妹だけによって片づけられてゆく。私はだんだんと居心地の悪さに我慢しきれなくなりつつあった。


そうしていても馬車は進み、見たこともない景色が窓から見える。そんなに大きくはない馬車が森林の舗装もお粗末な道へと入り、その森林もピクニックをするには木立が手入れもなく生い茂り薄暗くて不気味だ。──ここはどこですか、と耐えかねた私は恐る恐る姉妹に問いかけた。


すると、がらりと態度を変えて、姉妹が声を荒らげた。


「私達はずっとあんたを生意気だと思っていたの。妾腹の娘のくせに、私達と同じ扱いを受けて、三度の食事ももらって、綺麗な服着て、何様のつもりなの。同じお屋敷で働きもせず、のうのうと生きて!」


「……しょう、ふく……?」


初めて聞く言葉だ。難しい言葉はまだ分からないけど、姉妹が言いたい事は伝わってきた。私のお母様は、お屋敷で一度も「奥様」と呼ばれた事がなかったから。それに対して、姉妹を可愛がっている「奥様」と呼ばれている人は、お屋敷では誰からもかしずかれていた。──つまり、私はお屋敷の「奥様」ではないお母様から生まれた娘ということだ。


姉妹が怒鳴ると、馬車は止まって扉が開かれた。護衛の騎士がやって来て、私の腕を掴み強引に馬車から引きずり降ろす。


「嫌、何するの。お姉様、これは何ですか?──お姉様、」


「汚らわしい、気安く話しかけないで。あんたに相応しい場所に連れて来てやったのよ。──後は頼んだわよ、二度と戻って来られないようにしてちょうだい」


「──お姉様?!」


騎士に腕を掴まれたまま、森林の奥へと連れて行かれる。「やめて、離して!」と、どんなに抗っても騎士は力も歩みも緩めず、無言のまま私を森のさらに奥へと連れてゆく。


森の方向も何も読めない場所で、ようやく離されたと思ったら、今度は大木に片腕を縛りつけられ、騎士は立ち去り放置された。縄を解こうと必死になっている間に騎士の足音さえ遠ざかり聞こえなくなっていた。


帰りたいけど道が分からない。姉妹からの言葉にも、かなりのショックを受けている。


それでも、帰らなければ。それが無理でも、誰かがいる場所に出なくては。鬱蒼とした木立が怖い。泣きじゃくりながら森をあてどもなくさまよっていると、でこぼこしている道には靴が合わなくて足が痛いし何度も転びそうになる。私はますます涙が溢れてきて止まらなくなった。怖い。心細くてたまらない。お母様に会いたい。


──すると、不意に茂みががさがさと音を立てて、目の下の隈がひどい、知らないおじさんが現れた。おじさんは驚いていたようだけれど、それは私も同じだ。


「──お嬢ちゃん、こんな森の奥でどうしたんだい」と声をかけられる。優しい声に私は森の怯えから救われて、言葉にならずにぐずぐずと泣いた。答えられない私を怒るふうもなく、おじさんは私に歳は幾つかを訊いてきた。私は泣きながら、一言だけ押し出して「……7歳……」と答えた。


「7歳か、そうか。──ならいいんだ、安全な所へ連れていくよ」


そう言われて、着いておいでと言われて、しばらく歩いて初めて見る村に手を引かれて行った。


おじさんの家は森の出口から近い所にあった。粗末な古ぼけた木の家だった。


おじさんを見るなり「あんた、丸一日姿を消して何をしてたの。ただでさえ明日には……」と耳にきんきんと響く声でおじさんを責めていた家の人達の皆は、おじさんが「聞いてくれ、この子は7歳なんだ!」と声を上げると、打って変わったように「7歳ですって?──この子に家族はいないの?」と厳しかった表情を一変させた。


「ああ、森の中で一人きり彷徨っていたんだ、おそらく捨て子だろう」


「じゃあ、うちの子は……この子さえいれば……お嬢ちゃん、本当に7歳なの?」


「う、うん……」


「それなら良かった。あんた、よく見つけてきたじゃない。──ほら、おばさんに顔を良く見せて。可愛い子だね、見たところお貴族様の娘みたいだけれど……こんな子を捨てるだなんて偉い人の考えは分からないもんだね」


おじさんの家の人達は、こうして感嘆しながら私を家に入れて歓迎してくれた。


──あのお屋敷には、もう居てはいけないんだ、姉妹が嫌がるんだ……。だけど、ここなら、居てもいいんだ。貧しそうだけれど、ここの人は私を受け容れてくれたんだ。 ──私は疑いなく家の人達の態度を好意だと信じた。


私は「うちの子のお古だけど」と着替えさせられ、おじさんの家族全員と夕食を囲んだ。しょっぱくて薄いスープに固いパンと干し肉の夕食だったけど、皆が優しく話しかけてくれるから、それだけで満たされた。そして固いけれどおばさんと同じベッドで抱きしめられて温もりながら眠り、翌朝になると不思議な白い服を着せられた。


私は知る由もなかった──その村では、黄金の狼が現れると捕獲して一週間檻の中で飢えさせてから、贄に7歳の無垢なる少女を捧げる、狼を大神とする信仰があったのだ。私はおじさんの7歳になる娘の身代わりにする為に拾われたのだった。


何も分からないまま、村人が集まっている所に連れて行かれて、狼を目の前にする。何かを訊ねる間もなく狼の檻へと乱暴に腕を引かれてゆく。


「何するんですか、やめて、離して、誰か助けて!」


──私は言葉の限り叫んだものの、応えてくれる人は一人もいなかった。


今になれば分かる。着替えさせられたのは、よその貴族の娘だと村人から気づかれない為だったと。そして、おばさんが私を抱いて眠ってくれたのは、夜のうちに私が家を抜け出して逃げないようにする為だったと。


押し寄せる言い知れない恐怖。


そうして、檻の傍に巫女が控えて、ぶつぶつと祈りを捧げているなか、金色の狼が入れられた檻に押し込まれる。狼の赤い目が光る。怖いと本能が叫ぶ。


「──嫌、やだっ、来ないで!」


飛びかかられ、檻で逃げようもなく食いちぎられる。生きながらに噛みちぎられる痛みは凄まじくて、あまりの痛みに悲鳴も上げられない。


儀式のなか、雄叫びのように沸き上がる村人達による祈りの声は、まるで歓声に聞こえる程不穏な喜びに昂っている。その村人達の残酷な歓喜に満ちた祈りの声を聞きながら、私は絶望して息絶えた……。


──そして私は生命を絶たれて冥府に行き、身体を持たぬ小さな魂の玉となり天国に送られた。


百年で次の人生に転生する事になる天国。


けれど、傷は癒えなかった。


──こわい、おおかみ、こわい、にんげん、うらぎる、にくむ、こわい。


魂だけになった私は、そう繰り返して泣き続ける。


* * *


それを冥府の神ハデスの妻、女神ペルセポネーが哀れだと心を寄せていた。


もう百年を迎えてしまう魂は絶望しているままだ。ペルセポネーは冥府の天国を訪れ、太陽がなくとも明るく暖かい世界の片隅で縮こまり「こわい。おおかみ、こわい。こころが、いたい。いたいの、わすれられない。わたしは、すてられた。にんげん、わたしをころす」と震える魂を手のひらにとって包み込んだ。


「哀れな子ね……このまま次の人生を始めても誰の事も信じられずに苦しむでしょうに」


「──ペルセポネー、またその魂を気にかけているのか?」


切なそうに呟くペルセポネーの背後から、ハデスが静かに声をかけてきた。冥府の審判を終えたばかりなのか、正装姿だ。


「ハデス……だって、あまりにも可哀想なのですもの。愛を知らずに7歳で生命を奪われた魂なのよ。見て、百年の時を経たのに、まだこんなにも癒えないで苦しんでいるの」


「冥府の審判でも泣くばかりの魂だったな……家族に捨てられ、生け贄にされて苦しみ抜いて死んだ生命か」


「そう。ですけれど、時は訪れてしまっているわ……ねえ、ハデス。次の人生を始めなければならない、この哀れな魂が幸せに生きられるよう祝福を与えるのはどうかしら?──今度こそ愛されて人生を全う出来るように」


言いながら、ペルセポネーは魂を慈しみを籠めて優しく撫でた。ハデスもまた、穏やかに魂を見つめる。それでも魂はふるふると震えていた。


「ペルセポネーからの祝福か。それも悪くないな」


「そうでしょう、──そうだわ、この魂には私と瓜二つの容姿と名前を授けてはどうかしら。女神の姿と名は魂に無二の力をもたらすでしょう」


「妙案だな。──だが、名前はそのままではよくないだろう。神の名は、そのままでは人間にとって力が強すぎる。ペルセポネーを少しもじってペルセポニアはどうだろうか?」


ハデスが助言すると、ペルセポネーは、「あら、可愛らしい名前ですわ。それが良いですわね」と、おっとりと嬉しげに頷いた。


「ペルセポネーが祝福を授けるのならば、私からも祝福を授ける事としよう」


「ありがたいわ、この魂はきっと強い守護を得られるわ」


「そうだな……いつか魂が新しい人生で行き詰まる事もあろう。その時、いつでも冥府を訪れて助けを求める権限を与えよう」


「冥府を訪れる、とは?──生命ある者には本来ならば無理ですわね。何かを媒介にしなければ」


「ああ、通じる道を鏡に宿そう。望めば道がひらけるように」


やおらハデスは手を伸ばし、ペルセポネーが包み込んでいる魂にそっと触れた。


「──では、冥府の神である私より傷つける魂に祝福を」


「私も──豊穣の女神でありハデスの妻である私より、次の生で魂が癒され幸福に満ちることを願い祝福を」


魂に触れるハデスとペルセポネーから淡い光が発せられ、その光は魂へと注がれた。


「さあ、時は至った。旅立つがよい。光ある人生の旅路へと」


魂が祝福を受けて輝きを放ちながら、輪郭を失って天国から消え、現世へと降りてゆく。


──そして魂は、癒えない傷に祝福という手当てを施され、いつか傷が癒えるようにと新たなる人生へ送られたのだった。

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