白亜に霞む水面の輝き。

 わずかに湾曲した水平線の先。空の色に比べればわずかに濁りのある青い影がうっすらと浮かぶ。


 操舵者に方向を指示する見張り役が手旗信号と共に「見えたぞー!」と大声を張り上げた。


「船に人生の大半を捧げてきましたが、この瞬間が一番いいですな」


 テオドーラが率いる商船団全体を統括する船長マルタが満足気な表情で言った。


「あなたのおかげで僕の商売は上手く行っているようなものですよ」

「ご謙遜を。これだけ優秀な組織を航海術では造れませんからね。秀でた分野で助け合ってこそです」


 商船団の拡大に伴い人員を募集したテオドーラの元へ名乗り出たのがこのマルタという男らしく、柔和な態度が荒くれ者の多い船乗りには似つかわしくなかった。


 流氷が今だに流れる海域を通るにあたり、損耗を考えて沿岸沿いから外れた航路を使ったにも関わらず、こうして目的の場所にしっかりと到着できるのは凄いことらしい。無事到着できてよかったと言う言葉には不安の色が一切ない。


「おかげで楽ができた」

「最近腰に来るとか言ってるけど、もう年ですかね?」

「なーに、やる時だけやる男なんだよ俺は」


 船団が色めき立つ気配を察して出て来たカージタが早速とテオドーラとじゃれ始める。


 ずいぶん見慣れたやり取りを横目に、言われて初めて気が付いた遠方の大陸を見つめる。これほどまでに離れた場所を”見る”というのはよく考えれば初めてだった。


 ”境界”の頂が青白く見える。それと同じような見え方をするのはなにか理由があるのかもしれないが、ただ遠い場所を見るとそう見えるくらいにしか知識が無かったし、その謎に応えられそうな人物にも心当たりがない。


「遠くを見るとなぜ青く見えるのだろうか」


 びゅうと強い風が吹き、茶色の癖毛が弄ばれる。潮風に当てられ続けているせいでごわごわしていて痒みがあった。


 できれば早くお湯に浸かりたいな、そんなことを考えているうちに船はゆっくりと大陸に近づいて行った。





*****





「うわあー! ほらソルト、綺麗だよ!」


 ニルが叫んだ。彼女にしては珍しい興奮の仕方をしていた。


「たしかに、この景色は船からじゃないと見れないだろうし、特別だね」

「そんな御託はいらないさ! ほら、綺麗だよ!」

「たしかに! すごい綺麗だ!!」


 煙草の一本でも吸うのかと思ったが、その様子も見せないニルが指をさす。


 沿岸部に張り付くように真っ白い建物が並んでいた。屋根は色とりどりに塗り分けされ、日の光を反射する水面に負けないくらいに輝いていた。


 ところどころに緑も見えるが、全体的に岩と砂に囲われた中で突出して美しい港町が形成されている。小舟や小規模な漁船が忙しなく行き交っており、その美しさに負けない活気があった。


 が、私が素直に景色を楽しめないのは当然わけがある。


 一つは「ニルは元気ね」と言うポフのことだ。

 

「それより、ポフは大丈夫かい?」


 ええ、と短く応えたポフは神域の外、かつ曇天の多い北部を抜け強い日差しが降り注いでいるこの場所にわざわざ出て来て目を細めていた。


 つば広のとんがり帽子を目深にかぶり、遮光性の高い分厚い外套を羽織っているが、船上に日陰はほとんどない。


「日の光を遮ってあげたいところだけど――」

「慣れないといけないわ。ずっとこの調子じゃ何もできないもの」


 そう言ってポフはホルドによる遮光を断って来た。


 目の前の港町から取引をするために一度内陸に入ることになるらしく、通り名よろしく砂まみれの地域ではホルドの祝福も期待できない。ずっと遮光し続けるわけにはいかないので、言い返す言葉もないのが歯がゆいところだが、あまり無理をして欲しくない。


 適当なところで港に船を寄せるまで船室に居たほうが良いと言った。



 二つ目は、港の外縁部に停泊した私たちの乗る船がそんな港町からやって来た小舟に取り囲まれる形となっているということだ。


 船の縁から見下ろすと日焼けした男や女が手にいくつかの物を持って群がっている。何やら聞きなれない言葉を捲し立てているが、状況だけから察するに手工芸品でも売り付けに来ているようだ。


 寄港する予定なのでできれば街に着いてから――もちろんついたところで群がられても困るのは困るのだが――商売を始めて欲しいが、いかんせん言葉が通じない。


 船を港につける許可を取りにマルタとテオドーラがいなくなった後を狙いすましたような集結っぷりだ。きっと他の大型商船が来た時も同じようなことをしているのだろうと思えるくらいに手慣れている。


「なんだか申し訳ないなぁ……」

「商人なんて厚かましくてなんぼさ。ほら、下なんか見てないで!」

「ニルはなんでそんなに元気なんだよ」


 きゃっきゃと騒ぐニルに手を取られ船の縁から引きはがされると、そのまま甲板の上を行ったり来たりする。指さす先々に珍しい形の建物や奇怪な物体があり、さすがの目の良さだ。


「良く見つけるね」

「ソルトだって目は良いだろう」


 突然手を振るので何事かと思ったが、どうやら街中から手を振っている子がいるらしい。全く見つけられなかった。


「異国の地って感じだね」

「そのままその通り異国だからね」

「そういうことじゃないだろー! いいかいソルト、綺麗な景色にいい天気、横に美女を侍らせて、もっと楽しみなさいな」

「わーい、たのしいなぁ」


 とぼとぼと付いて来るポフを気にしつつ、有頂天になるニルの相手をするのは大変だ。


 どちらかに気を回せばどちらかが機嫌を損ねる。うまく立ち回らなければその後にとんでもない支障をきたしかねない。


 しばらくそんな攻防を繰り返し、疲弊していく私を見てカージタが豪快な笑い声をあげていた。





*****





「本日はこの部屋を使ってください。”一室”で、良いですよね?」

「ええ、どうもありがとうございます……」


 数の少ない船室は当然として共有していたし、私たちがそういった関係性だということを知っているテオドーラが遠慮がちに聞いてきた。


 交渉を終え、群がる商人を追い払ったテオドーラが、奇怪な興奮を覚えているニルとへろへろのポフに挟まれた、とんでもなく衰弱した私を見たからだろうか。


「明日には内陸に向けて出発になりますので。疲れすぎないようにね……」

「もう、すぐ寝たいです」

「えー、観光しようよ観光!」

「神様も寝るってよ。すぐに”コウサイ”が見えるよ」


 寝台に倒れ込んだポフの脇へ腰かけふうと息と吐く。


「ニルさんのご要望は帰りがけにでも叶えてもらってはいかがですか?」

「ああそう。テオドーラはソルトの味方ってわけね」

「あの、いえ。そう言うわけではないんですけどね」


 無駄に強い圧力に大きな商船団を従える男がうろたえる。何とも滑稽な絵も、身内の行いが原因となるといたたまれない。


 とはいえテオドーラに助け舟を出すと自分自身も被害に遭いそうなので、そっと視線だけそらした。


「ソルトのケチ」

「いやいや、どうしてそんなに興奮してるんだい? なにか理由があるなら話してくれれば考えるよ」


 あ、テオドーラがすっと部屋から消えていた。


「何ってほどのことはないよ。猟師をしていた時も、行商の斥候を始めた時も、まさかこのあたしが大陸の端っこに来ることになるなんて考えてもみなかったのさ。石の徒に追い回されていた時は余裕なんてなかったし、ここしばらくはずっと戦争ばかりだったし。なんだかうきうきしちゃったんだよ」


 編み込んだ赤毛を指先でいじり、しおらしい態度をとるニル。黄色味の強い緑色の瞳がまっすぐに私を見つめていた。


「フークバルトやシアンが今も戦っているのは分かってるよ。その助けになれるならあたしだってなんでもやる。けど、綺麗な景色を見て綺麗って笑って、美味しい物を食べて美味しいって喜んで、胸いっぱいに紫煙を吸い込んでゆっくりゆっくり吐き出したい時だってあるのさ。――その瞬間を生きられないやつに、この先の一瞬を掴むことなんてできないのさ」


 もぞもぞと動くポフがそんなニルの言葉を受けてか小さな声で言った。


「わたしはここで寝てるわ。少しくらい良いと思うのだけれど?」


 ニルの瞳が見開かれる。少し驚いたようだ。ぽりぽりとわざとらしく頬を搔きながら「ちょっと興奮し過ぎたのは反省するよ」とうなだれる。


「いや、私も狭量だったよ。それじゃあ、夕ご飯でも食べに行こう」

「やったねさすがソルト」


 そう言ってニルは私の手を取った。


 ポフはひらひらと手を振った。







【”Sleeping Talk”】

――カハーレ(港町という意味)――

 大陸最東端に位置する通称”砂の国”の中でも比較的大きな貿易湾口都市。

 その生活の大部分を貿易に依存しており、特に北部からやって来る船団は”森林聖共和国”と貿易ができるほど大きな商船であることが多く、良い商売相手とみなされる。

 半ば押し売りのような勢いで漕ぎ寄せ、逃がすまいとする姿勢は大陸南部の人からは好まれている。

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