第六章 道程
彼女が言った言葉は。
「では、彼を引き留めることは難しいのですね」
「はい……。エウフェーミア総統も彼の性格はご存じでしょう?」
「そうね。ご友人たっての願いを裏切ってまで安穏とした生活に甘んじられる人ではないわよね」
ネレアナが伏し目がちに報告する内容。いつかは来るとわかっていた別れ。できる限り引き延ばしておきたいそれがやって来た。
「まだ何も進んでいないのに……」
「――すみません、聞き取れなくて」
「なんでもないわ。ごめんなさい気にしないでね」
わざと聞こえにくい小声でつぶやく。情けない話だけれど、聞かれるわけにはいかなくても、言葉にしておきたいことがある。だから小声で、わざと興味を引かせるようにつぶやく。
それが良くないことだってことくらいは分かっている。
「はぁぁぁぁ……」
造りが頑丈で、広く作業用のスペースを確保できるお気に入りのデスクに突っ伏すと、ネレアナが心配そうに身動ぎする気配を感じた。
「ねえ、今だけ友達のネレアナになってくれる?」
「まだご公務がおありでしょう。夜にソルト様にお断りして私室にお伺いしますよ」
「もう、こんなに傷心した友人を夜まで放っておくなんて」
「森と人の国の総統ですからね。その重責は計り知れませんが、責務あるうちはお勤めを果たしてください」
昔から優しいけれど、わたくしを甘やかしてはくれなかったネレアナだ。そう言うだろうとは思っていたので特に言うことは無い。
大きく息を吐き出して、吐き出した息が消える前に気持ちを切り替える。
「治安維持への影響が大きくでそうね。悪いのだけど、戻り掛けにカルマンに声をかけておいてもらえるかしら?」
「そう言うと思われましたので、すでにお声かけはしてあります。もう間もなくやって来るかと」
「さすがね。それじゃあ、ネレアナ。また後でね」
「はい」
深くお辞儀をしたネレアナが執務室を後にする。
扉が閉まり人の動く気配が消えると、窓の外からわずかに鳥の鳴き声がした。誰も入れるなと厳命してあったので一人ポツンと広い部屋の中に取り残されると、微かな音でさえも体に響いて堪える。
「なんでかしらね……。いえ、何でも何もないわね。わたくしが一番ではないだけ。一番最初の相手でも、一番大切な相手でも。一番憎い相手でもないだけ」
嘆いたところで誰も聞いてはくれないし、結局こんな弱音を誰かに聞かせるわけにもいかない。
つくづく総統なんて地位には就きたくなかった。ソルトがこの国の王になってくれればよかったんだ。
「どうしてわたくしが先に出会えなかったのかしら」
この嘆きを彼に聞かせれば立ち止まってくれるかしら。いえ、無理ね。
あの手この手を尽くしてもどうにもならないからこそ惹かれる。そんなものよ。きっと。
*****
「国外の湾口に船団自体は待機させてあるから。ソルト君たちの別れが済んだら出発だよ」
荷物の積み下ろしというのは思ったよりも時間がかかった。
長旅になる場合、一度すべての荷を降ろし、船全体に均等に荷重がかかるように再び必要な物資を積み込んでいく作業というのは言われれば確かに時間がかかることは想像に難しくないが、言われてみなければ想像したことも無かった。
それが一隻ではなく十数隻にもなれば、なるほどと言わざるを得ない。
「必要な言葉は必要な人へかけてあります。思い残すことは特にないですよ」
「長く離れることになるよ」
「承知の上です」
どのみちここは私の故郷ではない。
すべてが終わって帰る場所はあの何もなくて、長閑で、少しだけ湿気た森の中だ。あそこにまた小屋を建てて、何でもない食事を楽しもう。
それに永遠の別れをする必要もない。旅をするのに十分な技量さえあれば、この地へまた来るのは難しいことじゃない。もう閉じた神秘の国ではないのだから、来たいときに来て、帰りたいときに帰れる場所なのだから。
「それから、わかってるとは思うけど――」
「外は雪と氷に閉ざされているから、神域を抜ける前にしっかりと着込みます」
「小煩いかい?」
「気にかけてくれているというのは凄く伝わってきます」
「まるでお母ちゃんみたいだね」
にやぁっと口角を歪ませ、立ち昇る煙にお道化た様子を乗せながらニルが言った。
テオドーラは何も言わずに耳飾りを爪弾くが、額をぴくぴくと痙攣させている。そんな様子を見逃すはずがないニルによって更なる追撃を受けていた。
「本当にネレアナを連れて行かなくてよかったの? 手を焼かれる生活に慣れてしまっていないと良いのだけれど」
「ひどいなぁ。身の回りの世話をできなくなるほど、何でもかんでもやってもらってたわけじゃないよ」
森と人の国を出立する旨は当然エウフェーミアにも話してあり、たぶんネレアナから先んじて報告を受けていただろう彼女は驚いた様子も無く淡々と了承したと言った。
その時に傍仕えとして今後もネレアナを連れて行ってはどうかと提案をされたが、エウフェーミアの親友を危険な旅に連れだせるわけがないと辞退したのだ。
「個人としても、ソルト様の御側にお供できず残念でなりません」
「悪かったって。けど、こればかりは承知できないよ」
内戦の折、エウフェーミア陣営へ加わる条件とした刻み文化の廃止によって、彼女の首元を藍色に染まったベルトが締め付けることは無い。
もはやふるい手が誰かの所有物だと指し示す必要のない国になったのだ。
彼女が本心から願えば国の外に出ることだってできる。それでもここに留まり続け、使用人という仕事を続けているのは彼女が願ったことだ。
”管理の法”により洗脳されていた期間が長く、何があっても曲がることの無い本心からの願いなのか確認する術はないが、少なくとも今この時は楽しいと言った彼女の言葉を信じるほかない。
だからこそ、ネレアナはエウフェーミアの側で彼女を支える柱の一つでなければならないのだ。
それに、ただでさえ外の世界に出たことが無く、自衛のための手段も持ち合わせていない彼女を連れていけるほどお気楽な旅をできるとは到底思えない。テオドーラからもたらされる中央大陸の現状は、それほどまでに逼迫していた。
「ソルト様、最後にもう一度エウフェーミア様へお声かけしてくださいね」
ぼそりとネレアナがつぶやく。
「わかってるって」
少し離れた岸辺のほとり。ただ一人ポツンと立ち尽くし、ゆらゆらとゆっくり流れる運河の水面を見つめているエウフェーミアへ視線を向ける。
いろいろな人の視線が向けられた気がする。
ごほんと一つ咳払いを入れ、無遠慮な視線をひと睨みした後、ゆっくりとエウフェーミアへ近づいて行った。
「しばらくお別れだね」
「そうね」
短い返事だった。
エウフェーミアが好意的な視線を向けてくることには気が付いている。それに応えられないことを彼女も知っている。
だから別れるのだ。一旦気持ちを切り替えて、また出会った時のような無邪気な笑顔で歓迎して欲しい。友達になって欲しいと言われたあの言葉の延長に、彼女と私のこの先があって欲しかった。
「森林聖共和国って、響きだけでも懐かしいと思えるようになったわ」
「今や森と人の国だからね。笑顔と活気に満ち満ちた良い国になったし、これからもそうなっていくよ。エウフェーミア、君なら必ずできる」
「そうなったら、また遊びに来てくれるわよね?」
「もちろん。ここの料理ほどおいしい物が出てくる場所なんてないからね」
「ひどいわ。料理だけ?」
誤魔化すようにとぼけた声音を真似て、くすくすと笑うエウフェーミアが言う。
「”世界を旅して来たけれど、やっぱりここが一番だ”って思わせてあげるわ」
決意に満ちた顔。
瞳に力が宿ると、その視線を向けられただけで熱を感じることができる。間違いなく彼女はやり遂げるだろう。そう確信できる熱気だ。
「あっはっは。そうだね、それじゃあちょっと世界を一周してくるよ。土産話は期待してていいよ」
そうだ。私はわくわくしていた。旅立つときにこんなに心が沸き立つのは初めてだった。
思えば旅立ちは物悲しいことが多かったけど、希望が渦巻くこの場所を去るのに最も似合うのは間違いなく笑顔だろう。
私は笑い、エウフェーミアが笑った。
そして渡し船が出発する。運河の流れに合わせて国外と国内を隔てる神域の壁が繋げられているので、このまま流れに身を任せていれば外に出られるそうだ。
大きな音が鳴り響く。
振り向くと、ここにまで届くほどの冷気がほとばしった氷柱が天高くに打ち上げられていた。
高速で飛翔するそれが瞬く間に小さくなり、やがて巨大なカンファンダスの花が空に咲く。青く透き通り、凍えるほどに美しい。
外套の襟を立て、開けた前を手繰り寄せる。
別れを惜しむ暇も無く、無遠慮な暗闇が全身を包み込んだ。
【”Sleeping Talk”】
カンファンダスの花は二面性を持つ。
日の光を吸い込んだような真昼の顔と、ぞっとするほど美しく闇に染まる夜の顔。その二つをその身一つに宿らせることができるのは類まれ足る証拠だ。
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