――打ち捨ての国―― ゾドワナアルカン。
周りよりも小高い丘の森。大きく見れば境界の一部であり、その西端に限りなく近い場所。
生い茂った葉や絡まった蔦、背の高い草の隙間から見下ろせる先にニルの言うゾドワナアルカン、通称”打ち捨ての国”が見えていた。
それは確かに国と呼べるような代物には見えなかった
無秩序に建造された長屋や狭間を埋める泥まみれの天幕が見渡す限りの平地を埋め、火事なのか炊事の火なのかわからない煙がもうもうと立ち上がっている。
大きな建造物などは無く、一帯だけ綺麗に均された跡のようにさえ見えた。
「いい噂なんて一つもない場所だけど、群れれば強いを地で行く場所だからさ。ふるい手も語り手も、なんなら亜人だって飲み込んで。大国二国の緩衝地帯として機能するまでになっているんだよ。ここなら帝国の追手だって、石の徒だって安易には近づけない」
見下ろすニルの視線はわずかに揺らいでいて、言葉の端々が躊躇しているように見受けられた。
「入ったことはあるのかしら?」
「もちろん。ここから北上して境界を迂回する道から、最北東端の森林聖共和国まで行くような隊商だっているくらいだからさ。大きな行商隊に雇われれば、嫌でも寄ることになるよ」
まあ、そういう場合は玄関口で商いだけして、奥深くまで入ったりはしないんだけど。と小さな声でニルが続けた。
「追手が近づき難い場所であるのは確かそうだね」
安全な暮らしが送りたいだけなら、そもそも旅なんてする必要もない。
立ち止まっているだけ無駄だし、現実問題としてどこかで補給をしなければいけないのは間違いないことだ。
必要なものを揃えて、必要な情報を集めて。そもそも長く滞在したいと思える場所ではなさそうだし。
「行こうか。ここからなら日が昇っているうちには到着できそうだよ」
「それなら、神様のご機嫌を伺わないと」
「呑気で結構ね。わたしたちは見世物じゃないのだけれど」
慣用句じゃんとニルがお道化て、ポフが眉を下げる。
やっとの思いで、なんとか到着できたという安堵の色が透けていた。例え向かう先も無法地帯だとしても、文明の色が見えたから。
*****
いくら何でも境界側からずかずか歩いて行ったら不審がられて目立つから、と遠回りして一端街道へ出ると、日の光が容赦なく私たちを照り付けた。
「うう、これは辛いわね」
「大丈夫かいポフ」
強い日の光に弱いとポフが言うので、私が来ていた頭巾のついた外套を貸した。
そういえばラーフッテンの街にいた時は鍔の広い帽子を被っていたり、あまり日の元に出ないように立ち回っていたかもしれない。
着の身着のまま飛び出してきた現状、森の中を進んでいたのはポフには良かったようだ。
「あんまりきょろきょろしないでよ。ただでさえ、女二人の子供一人旅なんて獲物みたいな状態なんだから」
「先ほどの暴漢を見る限り、心配はいらないと思うのだけれど」
「それでもだよ。無駄に血を血で洗ってると、次から次に絡まれるよ」
「一度わからせれば大丈夫じゃなくって?」
街道沿いとはいえ、天幕を張ったり、適当に小屋を建てたりして住み着いている人が散見され、そのうちの一つが金目の物を寄こせと言って襲い掛かて来たのだ。
ただし、なんの訓練も積んでいない素人で、少しばかり体格がいいだけのふるい手は為す術もない。ポフに耳を削ぎ落されると、おとなしく消えた。
鋼を使った剣を所有しているだけでも強みだが、扱う者の技量も伴えば一人二人の暴漢なんて道端の石と一緒だった。
そうしてしばらく歩いて行けば、補修なんて全くされていない長屋がひしめく一帯までたどり着いた。
僅かばかりの軒先や細い路地には天幕が張られ、まともに歩ける通りは少ない。それなのに驚くほどに多くの人が行きかっていて、薄汚れて鼻をつく臭いからは逃れられないが見かけ以上に活気がある。
「ようこそ、ゾドワナアルカンへ。なんて歓迎はされないから行こう」
「タードラッド河近郊の商業地域だよね?」
唖然と見ていた所をニルに咎められ、私もポフも腕を引っ張られてどんどん進んで行く。
長屋の連なる通りにはいかず、これまた迂回するように混沌とした一帯を回避するように太い道らしきものを進んで行くと、轟々と水の流れる音に負けない喧騒が響いてくる。
商業地域とは停泊所そのもののことを指していたようで、タードラッド河との接点がかなりしっかりとした船着き場となっている。
見る限りで何隻も船が停泊していて、大型商船も遠方に停まっているので、ここだけは本当に一つの国のように見えた。
「さてさて、まずは文明の味を堪能しに行こうかねぇ」
「とか言って、煙草を買いに行くんでしょ?」
「とか言って? もちろん煙草を買いに行くんだけど?」
頃合い的にも食事だと思った私が間違っていたようだ。
下手に分かれて行動するのはニル自身のが危ないと懇願され、仕方なく立ち並ぶ市の一角を物色。愛し気に歪んだ笑顔を浮かべ葉や紙煙草用の端紙をニルは購入していった。
私やポフも暇にかまけて露店を冷やかしてみたが、必要な物は別途探していく必要がありそうだ。
「さーて、お待たせしましたよ」
ホクホク顔で小袋を膨らませたニルに案内され、停泊所のど真ん中に設けられたこの辺り一帯では驚くほど大きく感じられる平屋の建物にやって来た。
椅子と机が乱雑に置かれただけのそこはいわゆる食堂のような場所で、炊事の煙でか天井は真っ黒に染まっていた。土むき出しの床も油でどこか湿気ていて、本当に言葉を濁しても情緒にあふれる場所などとは決して表現できない。
ただし、タードラッド河から吹く風で下卑た臭いはせず、代わりに香ばしい香りが漂っていて食欲だけはそそられた。
「適当に頼んだし、今回はあたしの奢りだからね! 遠慮なくどーぞ」
「それじゃあ、いただくよ」
「お言葉に甘えて、わたしも頂こうかしら」
ニルが受け取って来た食事を机に並べていく。
賜種――神代の穀物で世界を支える主食――を挽いて捏ねて混ぜ物をして焼いたパンと豚の腸詰、豆のスープ。中でも盛大に盛られた肉の塊にはテカテカした茶色い汁がかけられていて、刻んだ玉ねぎと香辛料が強く香り、食欲を刺激した。
油でギトギトだが、久しぶりに見るふるい手の料理に色めき立つ。
わずかな塩を節約して使っていたため、久しぶりの強烈な塩気が喉を焼く。しかし豆のスープで中和したり、パンを頬張って飲み込めば、次へ次へと手が止まらなかった。
「食べ盛りに森籠りは厳しいよね」
大きく吸い込んだ紫煙をはふぅと鼻からも口からも吐き出して、頭の中身が溶けてしまったんじゃないかと錯覚するほど恍惚の表情でニルが言った。
言葉を喋れていることが不思議だった。
「ニルもソルト君も狩りが上手だったから助かったけれど。お肉があるだけましでも、それでも料理とは違ったものね」
先が欠けて不揃いになっている木製の突き匙で器用に肉を取り分けてたポフは、どこぞのお貴族様のように口元へ少量の肉を運んでいる。
森の中でも骨をしゃぶったりなんてしていなかったし、帝国流というやつだろうか。
「そんなにまじまじと見られると恥ずかしいのだけれど。何かおかしなところがあったかしら?」
「いや、ずいぶん綺麗に食べるなと思って」
「おやおや、ソルト。お姉さんに見惚れちゃって、食べたりないってかい?」
「んーどうせなら、もっと静かな場所でご相伴に預かりたいかな」
「はんッ! 言うようになったね」
それほど広くない机を囲んで、にやついたニルの肘を食らいながらも食べ進む。
ポフも笑っていないで少しはニルを嗜めて欲しいところだ。
と、周りの喧騒が唐突に静まる。
煩いからこそ気にならなくなっていたのに。周りにこれだけの人がいて、こうも静かになるのは只事ではない。
大丈夫盾は手元だし、いざとなれば戦える。
「お前さん、ソルトぉてガキかぁ?」
「そういう貴方は? 失礼ですが不躾な質問に答える気が削がれまして」
「威勢が良いねぇ。俺はゾドワナだぁ。ま、簡単にいやぁこの辺り一帯の主だなぁ、おい」
ヨーレンのように大きな男が立っている。
それだけで有象無象が押し黙り、鳴りを潜める。遠巻きに何事かと、もしくは興味本位に近い感情を発露して、好奇の目線を向けてくる。
「ちぃと面ぁ、貸してくれやぁ」
ゾドワナと名乗った男はそう言って面傷の目立つ頬を持ち上げた。
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