ヨーレン・アルヴィゴース。

 岩のように大きくて硬い体は鋼でさえも欠けさせてしまいそうだった。


 鉄の仕込まれた半長靴を履いて、朝から晩まで動き回ったとしても疲れている姿なんて見たことがなかった。


 何度も何度も破れ、いつしか火の熱ささえも感じないほど分厚くなったという掌で、私の頭をがしがしと撫でて来た。


 痛くて痛くて、でもその痛みが今も忘れられない。


 ヨーレン・アルヴィゴースは語り手を単独行で狩ることを生業として、そして実際に数多の語り手を屠って来た。そういう男だった。



「語り手専門の狩人って、そんなふるい手実在するの?」

「もちろん、真正面から堂々となんてのはよっぽどじゃないと難しいだろうけどね。嘘偽りなく、真実だったよ」


 ニルのぽかんと開いた口に、難しい顔で口を真一文字に結ぶポフ。


 二人とも私の話に半信半疑と言った様子だ。


「この大円盾はもともとヨーレンの物でさ。小盾にしか見えなかったし、布でも振ってるみたいに軽々扱ってたよ」


 目を瞑れば今も鮮明に頭に浮かぶその動きは鮮やかで、いつもその動きを倣って訓練しているけれど、到底追いつける気がしない。


 体格が違うと言えばその通りだけど、大きな体に似合わないほど俊敏で体捌きそのものが洗練されていた。


「てか、アルヴィゴースってことは、アルヴィフォルダン大帝国の出身家系なのかな?」

「ん? どうしてニル」


 だってと付け足して、ニルは言った。


「ゴースは遺児って意味があってさ、アルヴィなんて発音つけるのはかの帝国出身者にしか許されないはずだからね。かなり特異な奴だって名乗り出るくらいに特別で異質な名だと思うよ」


 神妙な表情のニルは考え事でもしているのか、目線を焚火に落として口元をなでている。


 いつもなら煙草でも燻らせているのだろうけど、その気を紛らしているのかもしれない。


「ソルト君もアルヴィゴースと名乗っていたわね」

「ヨーレンの死に際にね、お願いしたんだ。お父さんと呼ばさせてくださいって」

「そう……。その、ごめんなさいね」

「いやいや。育ての親ではあったけど、お父さんなんて呼ぼうとしたら叩きのめされてたから、死に際くらいしか聞き出せなかったんだよ」


 私はお前の両親をその手にかけた大罪人だ。だから、お前から父と呼ばれるような不義理は働けない。


 師としてのみ、お前の将来を守るための訓練を課すだけだ。


 一度だけの願いに強くそう答えたヨーレンはとても恐ろしい顔をしていて、二度目を切り出すことが本当にできなかった。


 それでも密かに思い続けた願いは叶ったから、私は満足だった。


「本当の両親の名は知らないし、ヨーレンも知らなかったから。だからは私はアルヴィゴースと名乗ってるんだよ」


 赤い瞳を柔らかく歪めたポフが頭をなでてくる。


 子供扱いなのは変わらないが、揶揄われている気はしなかった。


「――ソルト」


 と、ニルが黄色味の強い茶色の瞳で私を鋭く射貫いてきた。


「その名、あんまり軽々と名乗ってはいけないよ」


「理由は?」


 その物言いに強い嫌悪を感じたけれど、理由も聞かずにというほど野暮な間柄ではなくなったと思っているので、一応聞き返した。


 場合によっては今この場で見捨てて行ってもいいと思ってしまった。


「歴史と、この世界の今のせいだよ。あたしは学が無いから、間違ったことは言えないけれど、それでも軽々に名乗ってはいけないよ」


 ニルが視線を外すことなく、それでいてそわそわと編み込んでいる赤茶色の髪の束をいじる。


 緊張に近い感情なのだろうか。


 理由らしい理由とは呼べなかったが、それでも確固たる意志が見えたので私は頷きで応えた。確約できるほどニルを信頼はできなかった。


「ニル、ソルト君。ほら、お茶冷めちゃうわよ?」


 はい、とポフは木製のカップをニルへ渡し、薬缶から湯気の立つお茶を注ぎ足した。


「あーもう。ごめんねソルト。柄にもない。紫煙の香りが恋しくってさ、苛ついてるのあたし」

「いや、こっちこそ大人げなかったよごめん」


 大人げ? と首をかしげたのは辛うじて見逃してやることにした。


 沈黙の間に、鳥の鳴き声が聞こえる。ぱちぱちという焚火の音も。風が木の葉を揺らす音も。


「森へ入って五十回は日の出を見たかしら。ニル、そろそろ西方の入口くらいには差し掛かっているのでしょう?」

「うーん。そうだね、北方の境界と、タードラッド河、南方にデルエル山が見えてくれば、西ジレジガリテ自由帝国とユウナングラリカ王国の境で、西端はまもなくってところさ」

「はあ、遠いのね。また、あの温泉に入りたいわ」

「あっはっは。ポフの毛皮手入れしないと凄いかゆそうだもんね」

「毛皮は心外ね。あなたに狩られる獲物ではないのだけれど」

「おっと、これは失礼しました。お詫びに櫛でも通そうか?」


 今は土汚れがついてしまっているが、もとは白い首の毛をポフが自分で撫でる。


「いえ、結構よ」

「そっか。それじゃあ、ソルトの髪でも梳いてあげようかな。だいぶ伸びてるし痒いでしょ」


 わきわきと器用に指を動かしてニルがにじり寄ってくる。


 彼女なりに悪くなった空気を和まそうとしているのだろう。あまり邪見にするのもと思いお願いした。


「ふっふっふ。幼気な少年で楽しむのも一興かねぇ?」


「ニル、頭の可笑しいこと言ってないで、さっさと済ませてあげなさいな」

「依存の症状で体と心がおかしくなってるんだよニルは」

「二人とも辛辣ッ!」


 櫛を通してもらったら痒みが和らいで、なんだか心も落ち着いた気がした。





*****






「ソルト君」


 足場に石や根がむき出しの獣道を歩いていると、後ろからポフが声をかけて来た。


 移動中に必要外の会話をすることが珍しかったので、何かあったのか、もしくは何か見つけたのかと思いながら振り返った。


「どうしたの?」


「ニルを見て欲しいのだけれど」


 私たちの先頭を行くニルは、森で育った私でさえも道なき道のように見える場所をずんずんと進んで行く。


 例えば折れた枝の向きとか、周囲の地形に対して下草の生え揃う向きがとか、上げ始めたらきりがない何かを見つけ出す速さが私とは全く違った。


 よくよく歩けばこうして獣道としてある程度踏み固められた場所だということがわかるが、それらをいとも簡単に見つけてくる。


 彼女がいなければこんなに森の深いところを狙って進み続けるのは困難だ。


「煙草が切れてから、何とか誤魔化してやってきているのだと思うけれど、限界ではないかしら」

「まあ?」


 そういわれれば、明るく振舞う姿が空元気に見えなくもない。


 本人も弱音を吐くわけにもいかずうまく隠しているからか、私は言われたからこそ気になる程度だが、ポフの方がそういった機微に聡いようで気になったのだろう。


 十分に役割を果たす姿からは違和感なんてないが、必要な事柄が体に染みついていれば何も考えなくても十分熟せたりするもので、心身的な不調がわかりにくいということもある。


 特に、戦うという術に乏しいニルからすればこういったところで価値を示さなければと思う心情も察することができた。


「ニル、手ごろな場所で少し休憩しよう」

「おーん? わかったけど、早かったかな?」

「いや、今後の予定も話したいと思ってさ」


 わかったよと言って、ニルは歩みを進めていく。


 座って火が起こせる場所を探してくれるのだろう。見つかったら、荷物に吊るして干していたよもぎでお茶を入れよう。



「ほら、これ飲んで」

「ありがとうソルト」


 ニルのカップによもぎ茶を注ぐ。私のカップにも注いで、旅荷物を持っていないポフと交互に飲む。


 大休憩を取るのであれば、多少の手間は惜しまずしっかりと休憩したほうが良い。


「なんでもお茶になるものなのね」


 帝国を飛び出すような形になってしまったポフは圧倒的に物資不足だが、ある程度の物は私と共用使用で賄うとして、着替え等やはりどうにかしなければならない。


 元々それなりに良い物を着ていたとはいえ、着た切り状態で草臥れてきているように見える。


 ニルの煙草もそうだが、いい加減ふるい手の文明がある場所に出たいというのが要望として大きかった。


「温かい物を飲むと、少しは辛さが紛れるからありがたいよ。ソルトの薬缶に感謝」

「全部ヨーレンが教えてくれたことだけどね。この薬缶もヨーレンの物だし」

「ヨーレンさんに感謝」


 目を閉じて両手で包み込むように持つ木製のカップが小刻みに震えている。


 依存の症状はかなり辛かった。我慢しようとしてできるものではなかったから、ニルは今かなり辛い目にあっているのだろう。


 お茶を飲む前に口にしていた物を吐き出していたが、それは噛んで葉の成分を吸う方法で気を紛らわせるために含んでいた、道中採取物の一つだ。


 ふらっと消えている時にどこからともなく採取してくるその植物は、あまり見たことがない物だった。


 そんなものに世話になりたくはないが、どこかの機会に教えてもらっておけば見つけた時に集めておいてあげることもできなくはない。


 まあ、気休め程度にしかならないようだけど。


「それで、できれば人の交流がある場所か、行商人と出会える場所に出たいところだけど。ニルはどう思う?」

「うーん。その通りと言えばその通りだし、なんなら”打ち捨ての国”が近いはずなんだけどね」

「”打ち捨ての国”? そんな国聞いたことがないのだけれど」


 そう、と一呼吸おいてぼーっと焚火の煙を見上げたニルは言った。


「俗称というか、呼びやすくするために国と言っているけど、正しくは国に属していない、もしくは属すことができない人が連帯して生きている地域と言えばいいのかな。タードラッド河の西端に広がる無法地域だよ」

「本で読んだよ。よく成り立っているなってのが正直な感想だったけど」


「そりゃ、誰かに縛られて生きることを強要されるのが好きな人だけじゃないからね。手ごろに肥え太らされて晩餐にされたくないって人が、国を捨てて生きているのさ」


 にやりと意地の悪い目をする。


「なんにせよ、できるだけ急いで行こう」

「わかったよ。まぁ、ゾドワナアルカンにさえ着いちゃえば、あとは何とかなると思うしね」


 ニルは自信たっぷりに私とポフを見比べて、よもぎ茶を啜った。





【”Sleeping Talk”】

 ――よもぎ茶――

 血行促進効果や発汗作用が期待でき、芯から温まることから底冷えする夜に飲むと体調を崩さないとして重宝される安価なお茶。

 できるだけ若い葉を柔らかい内に摘み、数日吊るして乾燥させれば成分を抽出しやすくなる。粉末状にして飲んでも旨味が出て美味しく、煮出す前に軽く焙っても香ばしい香りが立って味を変えやすいのも特徴。

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