西方の楓。

 十五日。私たちは境界の裾野に広がる塩の森を進んだ。


 ヨーレンに教わった山菜の知識をニルと相談しながら生かし、狩猟と合わせればかなりの日数を野山に籠っていることもできそうだと思えた頃、とうとうそれを見つけた。


「美しい樹だ」


 思わず感嘆の言葉が溢れ出た。


「本当に、他のどの木とも違うわね」

「でしょでしょッ! いやぁー案内できて本当によかったよ」


 それぞれに言葉を交わし、見上げる視線は右往左往。


 その楓はまさに威風堂々と佇んでいた。


「見たこともない風合いをしてるけど、種類はなんだろう」


 王侯貴族くらいでないとおいそれとは手に入らない銅へ、溢れ出したばかりの血を混ぜたような赤銅色の幹は、いったい私が何人いれば囲めるかというほど太い。


 ほとんど黒と言ってもいいほど濃い赤色に染まっている、五つに分けるように切れ込みの入った特徴的な葉が見渡す限り視界いっぱいを覆いつくしていて、両端までは荷車を何台も並べてやっと届くか届かないかといった大きさだ。


「神代からの生き残りなんだろうか」

「そう言われても不思議に思えないくらい立派ね」


 周囲を伺うように無意識に歩き出していた私に、一歩遅れる位置からポフが付いてきた。


 踏むたびにずっしりと沈み込む土の聞き漏らしてしまいそうなほど柔らかい音と、耳に馴染む小鳥の声。


 人の踏み入った気配のない土を踏み固めてしまうのは心苦しいが、枝葉の隙間を縫うように囀る小鳥は私たちを歓迎してくれるだろうかと気になった。


 これだけ大きな樹であれば、たくさんの鳥や小動物の住処となっているだろうから、私はできるだけゆっくりと歩いた。


「ふふッ。楽しそうね」

「ちょっと覗かないでよ」

「表情は見えてないのだけれど、うきうきしているのでしょ?」


「……まあね」

「いいじゃない。好きなことに熱くなるのは恥ずかしいことではないわ」


 くすくすと言う音が加わると、森の中なのにずいぶん賑やかに感じる。


 恥ずかしいから後ろは振り返らない。勝手についてきているだけ、と歩みを進めているうちにニルの待つ所まで戻って来た。


 どこから見ても見とれるほど美しく育った大きな樹だった。


「お待たせ」

「どーも、どーも。いやーなんだか見てるこっちがそわそわするくらい絵になるお二人でしたねぇー。堪能させていただいちゃいました」


 最後の一本だったんだけどね、と言いながら一呼吸も逃すものかという気迫を感じさせるニルは、愛おしそうに紫煙を燻らせた。


 その立ち姿こそ、絵になるなと思ったけれど言葉にはしないでおいた。


 言葉にしたら無粋だよと思われそうで、そう思われることが嫌だなと。


「そうだ。この楓から舞って来たんだよ」


 ニルが煙草の入っていた小袋を開く。


 中を覗き込むと、それは翼果だった。


「こうひらひらっとね。鳥が飛んでるみたいだった」

「楓の実だね。翼みたいに果皮の一部が広がって、親木からより遠くへ飛んでいけるようになってるんだよ」

「へぇー。木って頭がいいんだね」

「そういう発想はなかったなぁ。でも、翼果の舞う季節とは違う気がするんだけど――」


 本当に神代の樹であれば、私の知っている常識なんて通用しないだろうし、考えるだけ無駄かもしれない。


 すると、ニルが小袋から翼果を差し出してくる。


 樹の大きさに比べると随分と小さく感じるその実は六粒。


「どうぞッ!」

「ありがとう」

「嬉しそうね。でも少しだらしない顔なのだけれど」

「ソルトってわかりやすいから良いよね」


「あーもう。揶揄わなくてもいいだろう。台無しだッ!」


 そうだ、言い返すのは難しいけど、見返すのならうまくいくかもしれない。


「見ててね二人とも」


 私はあたりに満ちるホルドを手繰り、自身に内包するホルドを絞り出す。


 これほどの親木があって、周りに同じ楓が生えていないのが不思議だったけど、理由がこの翼果を持ってみてわかった。


十全を満たして必要を為せトゥリサーフィティオニティ


 掌の上の翼果が透明なホルドの朱に染まる。


 普通とは一線を画すほど濃いホルドの地ではあるもののこの楓が育つには薄くて、しっかりと育つためにはもっともっとホルド濃度の濃い場所が必要なのだろう。


 うまく風に乗って、それほど遠くまで羽ばたいていけるのだろうか。


 有無を言わせない虚脱感とともに翼果の実が弾け、ふわふわの双葉が生えた。


 握りつぶすどころか、そのあたりに置いておくだけでも枯れてしまう弱々しさは、しかし悠久の時の中で目の前の巨木となるその萌芽。


「おおー!」

「新芽は緑色なのね」


 薄黄緑色の柔らかい葉が二人の吐息に揺れた。


「核として十分すぎる代物だよ。たどり着いた場所で育つ自由は奪ってしまうけど、これからよろしく」


 感情を乗せホルドを固定する。それは言い換えれば魂を分け与え、我が身の定義を与えることにも等しいかもしれない。


 他の語り手はどんな核を使うのだろうか。


 ヨーレンの話ではそれこそ千差万別で、二つとして同じものはなかったそうだけど。


「よかったわねソルト君」


 ニヤついてしまっていたのだろうか、なんだか温かい目で見られた。


「他のは予備にするの?」

「まさか。もし、この世界のどこかにこの実を託せるだけの地が残っていれば、そこまで運ぶのが、私のせめてもの罪滅ぼしだよ」

「木相手に、語り手って変なところで律儀だよね」

「どんな生き物だって、何かに支えられて生きてるんだよ。他の語り手は知らないけれど、私はそう教わった。この樹の子を預かる変わりの約束だね」

「ふーん。――あたしらは自らの糧にするために育てるからね。勝手に支える側だと思ってたけど。そういわれると、動物がいなかったらお肉は食べられないね」


 ふるい手であるニルは畑仕事が生業ではないからそう思えたのだろうか。狩り出して、自ら魂を抜いて、その肉を食すのは当たり前のようで難しい。


 特に都市部に生きるふるい手たちは家畜から得る肉と、自らが耕した畑からの恵みで生きているはずだ。


 森は恐ろしい語り手の巣くう場所という認識のふるい手も少なくない。わざわざ森に分け入ってくるのはそう言った偏見の少ない国の出身か、そうでもしなければ食べ物を得られない人か。


「少なくとも、あたしはソルトの考え方が気に入ったよ」

「粋ってやつでしょ?」

「その通り!」


 残りの翼果を布で包み、旅荷物に追加した。


「さて、もう少し進む?」

「そうだね。ポフもニルもまだ行けるでしょ?」

「わたしは構わないのだけれど、ソルト君が一番心配かしら」

「もうちょいで池があるはずだから、そこまで移動して野営にしようか」


 ニルが先頭に立って、私とポフが後を追う。


 少しだけ寂しかった右手の上で、私の歩みに合わせて若葉が楽しそうに弾んだ。





【”Sleeping Talk”】

 ――神代の植物――

 神代戦争その終戦後、余波によってまき散らされた高濃度のホルドは、その地に生きるモノをすべからく蹂躙した。見かねた神様がホルドを内包して抑え込むことを目的として、世界に数多の種を植えた。

 長い時が立ち、暴れ狂ったホルドが落ち着くと植物も役目を終え、徐々に世界から姿を消していった。







 朝。日の光が木々の隙間からのぞき、葉を透かして輪郭をぼかす。


 火が無ければすぐに参ってしまいそうな寒さの中、白く染まる息を盛大に吐いて私とポフは立ち合っていた。


 肩から湯気が上がるほど激しくはなく、かといって早鐘を打つ心臓に平時の穏やかさはない。


 日の出までのわずかな、世界が停止してしまっているように錯覚させる薄明りの時間。


「毎朝元気だねぇ」


 木製のカップにお茶をたっぷりと注いだニルが、それを両手で包み込むようにして暖を取りながら言った。


 ヨーレンの持ち物の中でも特に高価な鉄製の薬缶は私のお気に入りだ。それをニルへ貸して、松の葉を煮出しお茶を作ってもらっている。


 朝一番に体を温めるのにこれほど適したものはない。


 森の中であれば松を見つけるのは容易だし、わずかに葉をもらう程度ではびくともしないくらい強い木だから気兼ねない。


「せいッ!」


 裂ぱくの気合とともに上段からの鋭い振り下ろしが私の大円盾を叩き、即席の木刀が砕け散る。


「ありゃ、硬い木の枝だって言ってたけどダメだったねソルト」

「樫の木ね。まあ枯れ枝じゃあこんなもんだよ」


「ふう……。そうね、かと言って真剣で立ち合いはできないし。訓練もままならないのだけれど――」

「日ごろから鍛錬を怠るわけにはいかないよ。素振りでもいいんだけどね。ポフの場合は身体的な部分では問題ないから、実戦経験と言うか、訓練とは違う不意の突き方を体で覚えてもらう方がいいと思うし」


 砕けてしまった木刀の柄を焚火にくべたポフはどさりと地面に座り込んだ。


「戦う術を頼ってるあたしが言うのもなんだけど、ソルトは厳しいね」


 煙草を切らして何日目だろうか。道中に生のまま噛んで誤魔化せる植物を見つけたと言っていたが、すこぶる元気のないニルはお茶をちびちびと飲んでいる。


「甘やかして苦労するのはポフだからね」

「……とても悔しいのだけれど、言い返せないわ」


 亜人の驚異的な身体能力を持ち相当厳しい訓練を受けて来たポフは、一対一で相手に後れを取ることはほぼ無いと思わせるくらい、いい動きをしていた。


 しかし、実直すぎる動きが目立つ。


 語り手を狩るための集団戦法が主だったのも災いしているようで、不意打ちや、予測の難し動き方が下手なのだ。


 今の私なら盾を滑りこませ、動きの起点をついてやれば簡単に転ばせることだってできる。


 このまま訓練し続けていったら、正攻法だけではポフに太刀打ちできなくなってしまうかもしれないが、私はあくまでも語り手だ。


 盾を使った戦い方が主ではない。


「おかしいのよソルト君は。語り手はホルドを手繰って世界ごと燃やし尽くして戦うものなのだから、盾や剣技なんかに精通していては困るわ」

「ヨーレンは厳しかったからね。ここまでできるようになるために、何度青痣まみれになったことか」

「語り手のお父さんなのに不思議な人だよね」


 ああ、とニルの疑問に答える。


「ヨーレンはふるい手だよ。ただし、すごく特殊な仕事をしていたけどね」


 ニルからカップをもらい、一口啜ってポフへ回す。


 渋みの中に仄かな甘みが混じっていて乾いた喉を潤した。

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