それを温泉と呼ぶ。
「それで、やつらがどこへ向かったのか把握はしているのか?」
「逃げるのに必死で正直わからんでやんす。でも、西の方に行くとか言ってたようでやんす。げっへっへ」
今すぐにでも殺してしまいたかった。それほどに腹の底から人を苛つかせる。が、いたずらに帝国兵に損失を出すわけにはいかない。
それに戦力的な意味ではこちらに分がありそうだが、北岸はいまだに我々の支配下にはない。
世に悪名高い石の徒だとしても、今は貴重な情報源と思って堪えよう。
「茶色い髪に緑色の目、大盾を担いだ語り手となれば逃亡者と特徴が一致する。白髪の女も一緒であったならば間違いようもないだろう」
「へへへ。帝国万歳ッ!」
ボコボコの鉄帽子をかぶった狂人は諸手を挙げて叫んだ。
「もうよい。さっさと立ち去れ。不愉快だ」
「おっと報酬はしっかりと貰おうか」
「――貴様、我らをおちょくっているのか?」
にゃんッと不快な声で喚いた狂人が「おーこわい、こわい」と歪んだ鉄棒を振り回す。
傍に侍っている薄汚れた不細工なばばあの目は死んでいるし、狂人共はきゃはきゃはと笑っているし、薄気味の悪い森のざわめきが奥底から湧き上がるように響いているし。
北岸は蛮族の住処だな。
「おい、約束の報酬を払ってやれ」
従卒が駆け出し、しばらくして布の袋に入った貨幣を持って戻る。
狂人は喜劇でも見せているかのように大仰に受け取り、浮足立ったようすで薄汚れたばばあの頭を叩き割った。
おぞましい奴だ。
見咎める者が誰もいない狂った組織だ。
だが、教義そのものも狂っているのだから仕方がないか。
ぞろぞろと引き上げていく奴らを心底から見下した。
あとは――
「イェルフェンフリートさえ始末できれば、次はこの森だな」
ふるい手のふるい手による支配が世界をあまねく掌握するまで、まだまだかかるだろうが、なにそう遠い未来の話でもないだろう。
「帝国万歳ッ!」
「「帝国万歳ッ!!!」」
見たかこれが帝国だ。
それでは行こう。愚かなる語り手と、同胞を裏切り逃げだした獣を狩り出しに。
【”Sleeping Talk”】
――石の徒――
魂持つものはすべからくホルドを解き放つべし。という教義のもと形成された、広く一般には狂人の巣窟と認識されている集団の総称。
他者を害することも、自身を害することも厭わない狂騒度合は時に国家へも向けられるほど。その一方で、周到かつ狡猾に目的を達成するための行動力も有している。
「少し熱いけれど、それがまた気持ちいいわね」
「さいですか」
「ソルト君も気持ちいいでしょう?」
まあ、気持ちはいいけどね。と目のやり場を気にしながら応える。
「いやーすごい絶景だよ、ソルト」
「あら、見張りはどうしたのかしら?」
「周囲一帯に人の気配なし。雉を仕留めたから、夕飯はお肉だね」
「優秀ですこと」
心配していた帝国兵も石の徒の追撃も無かったが、かといって広い道を行くのは躊躇われた。そこで境界のふもとまで北上し、山から流れ込む沢沿いに西を目指している。
遠回りになってしまうが、致し方ない。
ひょんな出会いではあったが、ふふふ、あははと楽しそうにお喋りを繰り広げているポフとニルはここ数日で本当に仲良くなっていた。
言葉遣い一つと言うのは本当に重要なんだなと思考を濁す。
「ねえ、ソルト君。耳が真っ赤よ?」
「熱いからね! 出たいなーニル」
「ん? 気にせず出てきなよ。誰もいないから安心だ」
浅いせいで少しでも動けばポフの体からちゃぷんと水が滴り、玉ねぎや大蒜を磨り潰したような匂いが沸き立つ。
ニルが吸っている、どこからともなく調達してきた葉の、甘ったるい匂いも相まって逆上せてしまいそうだ。
それもこれも、ニルの敏感な鼻がもたらしたものだった。
少し前、近くに湯が沸いている場所があると騒ぎ出したニルは、ほどなくして沢の流れに白濁した部分を見つけた。
言われるがままに遊走するホルドを手繰ってわずかばかりに沢の砂礫を押し広げれば、腐乱臭とともに白濁した熱湯が噴き出し、沢の水と混ぜれば即席の湯が完成。
これを温泉とニルは呼んでいた。
「肌着くらいつけて入ればよかったよ」
「こらこら温泉に浸かるのにそれは無粋だろう。ポフだってこうして生まれたままの姿なのに」
「わたしは見られて困ることはないもの」
「……お姉さんは流石だねぇ」
きゃいきゃいするのは結構だけど、私だって男なんだ。いい様に遊ばれっぱなしも癪だし、揶揄ってやる。
「ニルも入ったらいいんじゃない? ほら、さ」
「ほほーう。ソルト、本当に豪儀だねえ。こんな可愛い女の子二人侍らせて温泉だなんて。いいよ、入っちゃお」
すうっと大きく煙草の吸殻が進み、ぽろっと落ちていくのがなんだかゆっくりに見えた。
でも、二人が逆上せたら大変だから、と沢からの流れ込みをいじり出したニルを尻目に、どうしたもんかと思案する。
「ソルト君。その時分からこれじゃ、先が思いやられるのだけれど」
「ポフは何を言ってるの何を。それに、子供扱いはやめてください」
「ふぅーーん?」
真っ赤な瞳が勝ち誇ったように半円に歪み、口元が堪えるように吊り上がる。
確実におちょくっている顔をしているが、自分で掘った墓穴をどうにか埋め戻す手段を見つけないことには見返すこともできない。
「よしできたッ!」
そしてニルの言葉通り、沢の水が引き込まれる量が増える。
白濁したお湯が、うっすらとするくらいに。
「生着替えを披露するには、もう少し仲良くなりたいところだけど、どう思うソルト」
「あい、あいや。いや、ごめん」
「いーよ」
お湯と水が混ざり合って独特の波紋が浮かぶ、ただその不可思議な流れを見ていてぼーっとしていただけなのに。
湯に混じる異物が何かわからないから、顔にはつけないほうがいいよと言われたせいで目を隠すこともできない。
「ほら詰めて詰めて」
もっと深く、それこそ池くらいに掘り抜いておけばよかった。
「いやぁーッ! あったかいし、気持ちいねぇ」
「ニルに感謝しなくちゃ、ね?」
「一助の御礼だよ。少しは返せたでしょ?」
「そうね。これはありがとうと言わざるを得ないわ」
「ポフに素直にそういわれると、なんだか照れるね」
「茶化さないで頂戴な」
「いいじゃないか。あたしも照れてるんだよ」
「ふふッ。こういうのなんて言うのかしら。帝国の大浴場とは違う……」
「趣がある?」
「そう、――趣がある、てやつよ」
「こんなにいい湯には早々出会えないけどね」
「あら、今はそんなこと考える必要はないんじゃなくって?」
「そうだねぇ」
「そうよ」
はふーと同時に吐息を零す。
二人に挟まれる形で、その会話を聞かされる。話すことが嫌いなわけではないが、真正面を見つめ続けていると会話に混ざるのも難しい。
そして、さらに重大な事実に気が付いた。
白濁が薄れ、湯に反射する光景が増えてきている。
昼を過ぎて、もう間もなく日の光が落ち込んでくるだろうとしても、沢の清い水が白濁した湯に混ざる方が早そうだ。
もう、むしろしっかり見ろと神様に言われている気がしてきた。
心なしか日の光が落ちていく速度もゆっくりな気がする。
ふわふわと漂ういい匂いと、柔らかい感触と、ゴッという石がズレる音が聞こえた。
*****
「遊び過ぎてごめんね?」
「わたしも揶揄い過ぎたと反省しているわ」
温泉に長く浸かっていると不意に眠気に似た意識の混濁が起こるらしい。蒸し風呂でも長く入りすぎると気を失うこともあるし、もっと気を付けておくべきだった。
そう思いながらも、やっぱり二人の謝罪を素直に受け入れるのは釈然としなかった。
「本当にホルド被膜って不思議だよね」
ニルが不思議そうに、そして話題を逸らしたいのか少しだけばつが悪そうに、ぶつけかけた私の後頭部を擦る。その手は何事もなく私の髪を触り、何かしらの感触を残すことはない。
後頭部が石にぶつかって血が出ていることもなければ、たんこぶができて痛いなんてこともない。
心身より湧き出でるその身に余ったホルドが、恒常的に語り手の体を魂を守っていて、ホルド被膜の展開規模は語り手の力量でもあり、神様の寵愛の篤さそのものでもあるのだ。
私が怪我をしなかったのも無意識下で魂無き石を弾き、魂の定めたる形状を損なわないようにホルドがやったことだ。
「語り手を殺すには今だ神の物たる鋼を持って、まずはホルド被膜を押し切ること。そしてその身体を損なわせ、語らせぬこと。教練で習う基本ね」
「飛び道具が効かないってやつでしょッ! 幾万本の矢でさえも語り手は傷つかず――」
「――大地は火の海に沈み、反徒はことごとく討ち果たされた。有名な唄だよね」
「あら、ずいぶん恐ろしい唄。そう言ったものは帝国では禁止だったのかしらね」
ポフが枯れ枝で焚火をいじりながら言った。橙色の光がぱちぱちと爆ぜて、真っ黒な地面に落ちて消える。
「仮にも語り手を滅ぼそうとしている国が、その存在の恐ろしさを歌ってちゃだめだろうね」
「ソルト、それを君が言っちゃいけないだろう」
私はなんとも思わないが、ニルからすると問題になるのだろうか。
こういうのは気にした者が負けだ。
「語り手様は言うことが大きいねえ」
「ソルト君がまともにホルドを手繰っている姿を見ていないから、わたしにも想像できないのだけれど」
ぷかりと吐き出された煙草の煙が焚火の煙と混ざっていく。その様子をニルとポフは何とはなしに見上げていた。
「語り手は恐ろしいものだよ。そこをはき違えてはいけない。たった一人で何万人も住んでいる街を焼けるのは、やっぱり語り手だけだ」
ふるい手が束になった時も恐ろしいけれど、束になるには大儀が必要だ。
語り手一人が突然暴れるのに、大儀はいらない。ただ願い、振るうだけ。
これだけ濃いホルドの地であれば、大地が枯れ果てるまで手繰ったとして、どれだけ恐ろしいことができるだろうか。
「わたしのは、所詮は頭でっかちの知識ということね。実感が、経験が伴われていない」
「しょうがないよ。あたしだって、語り手の何たるかなんて聞いたことないし。精々遠巻きに見ているくらいだったから」
「アルヴィフォルダンの崩壊と森林の消失で語り手は凄く数を減らしたって、ヨーレンが良く昔語りしてたなぁ」
それほど経っていないけど、懐かしく感じる。
なんだか感傷的だ。
「少なくとも、ここにいる語り手様は、お姉さんの裸でわくわくしちゃう可愛い子だけどね」
「ふふッ。それもそうなのだけれど、言わぬが花よ、ね?」
なんだか――。
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