石の徒の狂人。
没落都市は広い。かつての栄光を誇るように。
しかしそのほとんどを木々に覆われ、壁や屋根は蔦で覆われ、石畳の跡は堆積した腐葉土と下草で覆われ、天然の迷路になっている。
根で支えられた崩れかけの家も、むき出しになった下部構造や上下水道も、その天然迷路っぷりに拍車をかけていた。
「湯船に浸かりたいわ」
「そんな無茶な」
唐突に切り出したポフは何を思ったかそう言った。
以前なら知らず、こんなに荒廃してしまった都市に湯船なんてあるはずもない。
それに、もしかしたら探し回れば蒸し風呂をやってる場所もあるかもしれないが、治安の悪いここで無防備な姿を晒すのは恐ろしくないのだろうか。
「わたし、この毛色に自負を持ってるのよ。ただでさえ忌々しい物なのだから、少しくらい自信をつけるために利用したいじゃない。だから、綺麗に整えたいのだけれど」
軽革鎧を太いベルトで固定し、足腰に合わせたようなぴったりとしたズボンを履き、長靴で足元を固めたポフは、真っ白い毛が露出した首元をふわふわと揺らして見せる。
挑発的と言えばいいのか。煽情的と言えばいいのか。じっと見ていると勝ち誇ったようにポフが笑った。
「あたしも湯は好きだけどね。ここでは聞いたことないよ」
困ったように眉尻を下げるニルは、紙煙草の入った包を指先で弄ぶ。
考え事をしている時の癖なのだろうか、流れるような動きで煙草を取り出しては咥え、はっと気が付いたようにしまっている。
「吸わないの?」
「数が心許ないのさ。この先のことを考えると節約しないと」
上下の革服をところどころ細いベルトで止めて、煙草の何それしか詰まっていなさそうな雑嚢ごと覆う外套をはためかせたニルが、酷く落ち込みながら言った。
それに、情緒もなく惰性で吸うなんてすべての紫煙に対して失礼だろう? と勝ち誇られても返答に困る。
「二人とも余裕があって結構だけど、大規模な石の徒の集団が近くにいるなら、早めに西端方面へ抜けちゃいたいな」
「語り手様がいらっしゃるのに、何を臆することがあるのかしら」
「そうそう。ぱぱーとやっつけてくれたら、あたしとこの辺の全ての人に感謝してもらえるよ」
旅荷物を改めて確認し、大円盾を抱えなおした私は心もとない右手を掲げて見せる。
「濃いホルドに包まれているとは言え、核足る物が足りない今は無茶な戦い方をしたくないよ」
喫緊の問題の二つ目だ。
ヨーレンから貰った小枝はポフの蘇生に使用した。長きにわたって私のホルドに曝していた核であればこその使い勝手だったけど、後悔はない。
ただただ、戦うには心許なくなっただけだ。
「近くの木から手折ってきてはダメなのかしら?」
どこを見ているのかわからないくらい視線の先は木だらけの場所だから、そうポフは言うのだろう。
だけど、と付け足して私は言った。
「これぞという物を吟味することも大切なんだ。魂に定着したホルドと遊走するホルドは似て非なる物だから」
「わたしには難しいわね」
「大丈夫、あたしもさっぱりだよ」
素気無くあしらわれて悲しくなった。
「でも、いい情報をソルトに提供しよう」
気が変わったとでも言いそうなニルが立ち上がりながら言った。
「西端を目指すついでで行ける場所にすごく大きな楓の木が生えてるんだよ。日数はかかっちゃうけど、行ってみない?」
「それはぜひ見に行こう」
是非もなく飛び付かなければ行けない話だ。興味しかない。
カエデは種類が多く涼しくなってくると黄色や橙色や赤色に染まるそれはもう綺麗な樹木だけど、目立つせいでふるい手至上主義たちの格好の標的になりがちだ。
タードラッド河南岸では全く見れないはずだから、ポフは見たことないだろう。
大樹なら手折らなくても自然脱落の枝が拾えるかもしれないし、絶景の思い出になら感情を定着させやすい。
「語り手ってこういうもの?」
「ニル、あなたには言われたくないと思うのだけれど」
「消耗品の補給ができれば、すぐ出発ね!」
私は逸る気持ちを十分に落ち着かせて、それはもう冷静に言った。何事も、準備を怠れば失敗しかない。その辺、ヨーレンは本当に抜け目がなかった。
道端の泥がかぶらない石畳の上に茣蓙を敷いて座っていたおばちゃんに、旅に必要な品物を取り扱っている場所はないかと聞くと、かなりぶっきらぼうだけれど教えてくれた。
そこは、とても恐ろしい見た目の大男と小狡そうな小男の二人が切り盛りするお店、と言うより旅商いが主体なのだろう。雑多な商品が薄汚れた敷布の上に並べられている。
小物類を物色していると、見た目に反してすごく親身になって相談に乗ってくれるので、あれこれと聞いている時――
「ふふふ、みーつけた」
耳元を舐めるような嫌な怖気の声がした。
小狡そうな小男の横で何かを熱心に見ていたニルが飛び跳ねるのが見えた。
私は咄嗟に手にした大円盾を振るう。間合いよりはわずかに遠いが牽制になればと。
しかし間に合わない。
閃いた瞬間、無感動に放られた投擲物が大男と小男の喉笛を抉る。
「ちーッ! はずしたぁー!」
大げさな身振りで盾を躱した得体の知れない男は楽しそうに言った。
「ソルト! そいつが石の徒だッ!」
「よくも逃げたなーッ!」
ニルの声と狂人の声が交錯する。
盾の面を斜に構え、足元を掬うように得体の知れない男へ打擲。
「おー怖い怖い。いきなり殴りつけてくるとは、危ない奴め!」
またしても大げさな身振りで避けると、二転三転と無駄に転がって距離を空ける。
腐乱臭だろうか。得体の知れない男の着ている汚れた外套から鼻にまとわりつく臭いが立ち込めた。
「それでは改めまして。ボクちゃんは――」
しゅんと耳元を掠める音。
名乗りを上げていた狂人が「にゃんッ」と叫び、飛来した物を叩き落とす。
「律儀に付き合う必要がおありで?」
ポフが先ほど小男に投げられた投擲物を投げ返したようだ。
流れで小男を見ると、喉から零れ出す血の量はほぼ即死だと教えてくれた。得体の知れない男のふざけた動きに惑わされていたが、技量はかなりの域に達しているようだ。
「あーもう、やだぁー。皆さぁぁぁあん。やっちゃってくださぁぁぁあい」
抜剣しながら敵との距離を詰めにかかるポフを嫌ってかそう叫ぶと、いたる影から滲み出るように全員が同じ意匠の貫頭衣に身を包んだ集団が現れる。
一本杉に針金を巻いた線輪の意匠。
完全に包囲される形で三十から四十人程度が殺気を漲らせていた。
「改めまして、ボクちゃんはすべてを捧げる者、エルマ・カータレット。みんなには気軽にヒミチャンと呼んでもらっていまーす」
「――私はヨーレンの子、ソルト。いきなりの狼藉、ただで済むとお思いで?」
ニルが静かに後方へ寄ってくる。敵の出現に少したじろいだポフも、手ごろな間合いのまま油断のない構えだ。
一瞬の睨み合い。
名乗り、囲んでいるにも関わらず動き出す気配のない敵を観察した。
長く伸ばした金髪はぼこぼこに歪んだ鉄帽子に押しつぶされ、紺碧の瞳が爛々と見開かれている。
微笑みでも浮かべていれば物語に出てくる貴公子のような整った容姿は、愉悦をかみ殺したように狂笑を浮かべ、歪みに歪んだ鉄の棒を重さを感じさせない軽やかさで無為に振り回していた。
「あれ? 来ないの? それじゃあ、こちらから行かせて貰おうかッ!」
突然の絶叫。
「全能なるボクちゃんたちの神へ、純真なる魂の供物を捧げ奉ろうぞ! いざ、ご照覧あれぇぇぇっぇえええ!!!」
「「おおうッ!」」
木霊する濁声。統一された意思以外がちぐはぐに感じられる。
数の力のみに頼った無策の暴走は、訓練され組織だった動きの兵士とは雲泥の差があった。
乱雑に、乱暴に、手にした武器とも呼べない棒切れや刃こぼれのひどい剣を振り回す。
その一人一人を刈り取るように、足場を確保しながらなぎ倒す。
横目で伺えばポフは回り込んだ敵を軽くあしらい、ニルは私とポフの間合いをうまく把握して安全地帯に逃れ続けている。
はっきり言えば警戒しただけ無駄と言える素人集団だった。
「あれれ? おかしいな。これから始まるのは弱い物いじめ。ボクちゃんたちの一方的な蹂躙劇だったよね?」
エルマ・カータレットと名乗った男の一声。
たった一言の重みで大勢の石の徒が目で見えるほど歯の根が合わなくなり、手にした武器は虚空をかたかたと殴る。
猛然と震えあがっているのにどこからともなく湧き出す石の徒たち。
影と言う影が全て彼らで埋め尽くされているのではと錯覚させられる。
「石の徒は狂人の集団だからッ! 言動に惑わされないで」
「本当に不気味過ぎるのだけれどッ!」
敵の数が少ない左方へ後退しつつ、エルマ・カータレットと距離を空ける。
出し惜しみしてもしょうがない。
「
ホルドを手繰り、呼応した木の根が近場の石の徒を地面から刺し貫く。
しかし一度の操作で虚無へホルドが霧散していった。
「おやぁー……。語り手ですかぁ」
もう一度手繰り、躍りかかって来た石の徒へ木の根が突き刺さる。今度は咄嗟での操作があだとなり、下肢へ深手を負わせるにとどまった。
「はーい、皆さぁぁああん! 撤収、撤収」
ぱんぱんと、片づけを促すような気軽さで手を叩きながらエルマ・カータレットが言った。
鬼気迫る形相の石の徒たちが、その行いに今気が付いたと言わんばかりにあっさりと引き下がる。
じりじりと距離を空けるのではなく、無防備な後姿を晒してやんわりと逃げ始めた。
「逃がすわけがないだろう」
「きゃんきゃん喚かないでくれたまえよ語り手くん」
どのような状況でも張り付いたように変わらなかった狂笑がすとんと失せる。
「うぐふッ! 信徒の皆さぁぁあんを後ろから殴ったら、この人どうなるかな?」
一拍の間。その一瞬が次に浮かび上がった狂笑を、芯からの怖気に昇華させた。
歪んだ鉄棒が指し示すのはひとりのおばさん。
石畳の上に茣蓙を敷いて座っていた、ぶっきらぼうに、でもしっかりと必要な情報を教えてくれたそのおばさんが死んだ目でこちらを見ていた。
この世ではない物を見たように、心底から絶望した顔で。
「それじゃ行きましょうか。キンッキンに冷えた飲み物があるんですよ」
腰に手をまわし、恭しくおばさんをエルマ・カータレットが促す。
抗う素振りなく従ったおばさんは天然の迷路の中に姿を消していった。
「追いかけるのは得策ではないと思うのだけれど」
がっと腕を掴まれる。
その白い肌に付いた返り血を拭いながら、ポフが器用に片手で剣を鞘へしまう。
「ポフの言う通りだよ。後どれだけいるのかもわからないし」
「信念を貫ける強さがあるのは知っているけれど、わたしたちが付いて行けないわ」
見ればポフの呼吸は荒く、ニルの外套が毀れた刃傷によって破けていた。
足場を確保するため動いた同線上には死に損なった石の徒が呻き声をあげていた。
「わかった」
そう言うだけで精一杯だった。
私一人であればまだ戦える。そう逸る気持ちが虚しかった。
語り手は数の暴力で討ち果たすのが確立した一種の手法。当然その暴威に巻き込まれるのは語り手ただ一人だけの時もあれば、その仲間も晒されることもある。
「それにこの場の石の徒を根絶やしにしたところで、奴らに打撃を与えたことにはならないだろうし」
「大丈夫ニル。説得しなくても、置いて突っ走ったりしないから」
「……大人だね、ソルト」
そんなんじゃないよと応えた。
下肢の傷が大きく意識が朦朧としている石の徒へ、雑に集めたホルドの煌めきを突き立てる。
びくびくと体が爆ぜて、こてんと動かなくなった。
動かなくなるとそこらに生える木と何も変わらない。魂によって固着されたホルドが解き放たれ、勝手気ままに遊走しだす。
語り手にしか見えていないという、死後のホルドの楽しそうな舞いを尻目に、生き残りを始末していった。
【”Sleeping Talk”】
魂はホルド(神の雫)と結びつき命を宿す源であり、魂を持つものこそを生き物であると定義する。魂に結び付いたホルドは語り手でも操作することはできず、何人からも害されないその者の物となる。
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