愛煙家のニル。

 森に沈んだ都市というよりは、造りそのものが森に寄り添った都。


 かつては旺盛な人通りに支えられたその都市も、今となっては繁茂した草木に覆いつくされている。


 そこは放棄された場所ではあるが、国家の支配から逃れた無法者たちがいつしか住み着き、狭間をのたくるように生きていた。


 ヨーレンに連れられて何度か足を運んだことのある没落都市とは違ったが、愛煙家のニルが私たちを案内した場所も、同じような理由で森の影となった都市だった。


「いやー大変だったねえ」


 場所がどこだかわからなくなる複雑な都市構造のどこか、明らかに勝手に住み着いた人が始めたのだろう廃墟と食堂の間くらいのお店にどんどんと入っていたニルは、人心地ついたといった表情で欠けの目立つ木杯から水をあおる。


「煮沸はしてるのかしら」

「都市の古い下部構造から染み出た地下水かな? 無理して飲まなくてもいいと思いますよ」

「……ごめんなさいね」


 都市構造からして全く違うラーフッテンからいきなりやってきて、生水に口をつけるのはなかなか勇気がいるだろうし、お腹も壊す可能性が高い。


 街中だというのに木々に覆われて暗い――私から言わせれば木漏れ日がある分ラーフッテンよりも明るい――鬱蒼とした森の中と遜色ない都市はポフには忌避感があるようだ。


「通りの人の話を聞いていた限りだと、今のところ逃げ延びたのはあたしたちが最初みたいだね」


 私とポフは顔を見合わせる。それなりの人とすれ違ったが、話を盗み聞く余裕はあっただろうか。


「大きな行商隊が襲われて、その噂話が流れていないってところからの推測だけどね。前乗りの斥候は五人だったけど、他の人はどうしているのやら」

「没落都市の中から探し出すのは難しいでしょうね」

「そうだねえ。この手の噂はあっという間に広まるもんだけどね」

「都市長に警告などはしないのかしら。物資が滞る可能性もあるでしょう?」


 ニルがからからと快活に笑う。


 流石に私は笑わなかったが、ポフは大国育ちなんだなということが良く分かった。


「ここにそんな大層なお人はいやしないよ。自分の身は自分で守るのが唯一の規則みたいな場所さ。それに、ここで商売する人は物資の横流しが目的か、良からぬ企てのためか、よっぽど高潔なアホだね」


「――そう」

「もっとも、あたしみたいなのには楽園だけどね」


 ゆったりとした動作で紙煙草を取り出したニルは、割れ物でも扱うように火をつけ大きく深呼吸するように煙を吸い尽くした。


「森のもたらす恵みは、ふるい手でも作れないものが多いんですよ。煙草の原料なんかも珍しいものは野摘みなんて珍しくないはずです」

「そのぉとーり」


 ぷかりと吐き出された真っ白な煙が円を空中へ描く。さらにぷかぷかと連続して吐き出した煙が追いついて、三重の円を描きだす。


「御街の人だって、病気の時は薬を飲むし、煙草だって吸うだろう? 語り手を恐れて森を切り開くのは結構だけれど、程度をわきまえないといけないとあたしは常々思ってるんだよ」


 少しだけバツの悪い顔をしながら私を見たニルは、もう一口煙を吸った。


「そういえば、こいつはスニフの葉も混ぜてあってね。ソルトもどうだい?」

「副作用のことですか?」

「あたしもね、何度か味わったことがあるんだけど、切れると辛いんだこれが」


 語り手の力をどこまで理解しているのかわからないが、魂に定められたホルドに則って分解しているので依存症のような症状は出ていない。


 今後についても気にしてはいなかったけど。


「特別辛いとかはないですよ。ご心配おかけしました」

「そうかい? それじゃあ、御近付きの印にということで」


 自然な仕草ですっと差し出された紙煙草。これが暗器だったら避けられないかもしれない。殺意の分だけブレがあるにしても、動きそのものが相手の機敏の外をくぐるように訓練しているのだろうか。


 癖や習慣はそう簡単に抜けない。ニル然り、私然り。


 疑ってかかること。敵意の有無を肌で感じ取ること。だから、ただ、なんとなく普段であればしないことをしてみる。


 紙煙草を受け取ると、ニルは口元へ架空の煙草を近づける動作で先を促す。


「そうそう。咥えたまま、筒の中に空気を入れるように吸って」


 粗末な机を挟んで、身を乗り出してきたニルが咥えた煙草を私の咥えた煙草へ押し付けた。


「吸って?」


 弱く、ニルの呼吸に合わせて吸う。


 じゅじゅっという音がする。二人の間にできた影で火口が橙色に染まった。


 肺を押し広げるように落ちてくる煙が柔らかくて甘い匂いに混ざって――


「ゴホッ! ゴホゴホッ」


「あっはっはっはっは! いきなり肺まで入れるなんて豪儀だねソルトッ!」

「もう、大人ぶりたい気持ちはわかるのだけれど、無茶しないでちょうだいな」


 目から零れ出す涙を拭われるのは凄く恥ずかしかった。


「さあ、これであたしたちは友達だ。よろしくね? ソルト、ポフ」

「わたしは友達になった覚えはなくってよ?」

「恋人にやんちゃし過ぎた?」

「いいえ、弟みたいなものよ」


 ふーんと言うニルの顔は満面の笑みだった。


「それじゃあ、いいよね」

「ええ。ソルト君についてはお好きにどうぞ」


 なんだか人身売買されている気持ちになったけど、実際に奴隷として売られたことは無いので想像だ。


「話が見えてこないです」

「いいんだよソルト! それより、その言葉遣いはいただけないねぇ」


 何がですか? と問えばニルは「そんな丁寧な言葉じゃ、さぶいぼ立っちゃうよ。仲良くなりたい相手には丁寧に砕けることが肝要なのさ」と変わらない笑顔がかえってきた。


「打算ありきで友達だねって言ってるあたしも大概だからさ、もっと親密になろ? ほら、もう接吻したようなもんじゃんあたしたち」


「――色々と言いたいことはありま……」

「あるけど?」

「……あーるけど、つまりこういうこと?」


 すぐ身近に迫っている危機から逃れられるまで、身を守り合って行かないか? と。


「違うよ。煙友達ができて嬉しいってこと」


 バカにすんな。と至極当然のように真面目な顔をして言われた。


 そして、言われると確かに語り手と行動できるならより嬉しいなとも付け加えてくるあたりが、結局のところ掴み所を見誤らせてくる。


 だいぶ燃えてしまった紙煙草を咥えなおす。


 もう一度だけ吸ってみて、やっぱり咽そうになることで、全部を誤魔化すことにした。





【”Sleeping Talk”】

 火口が無い時や移動中など、煙草に火をつける手段の一つとしてしばしば行われる行為は、より親密な間柄のみで行われる。特に男女間で行われるそれは、言葉だけで言い表せない関係性を表す。





 


 あたしは、本当に危ないところだった。


 行商隊へ定期報告のため戻っている途中、戦場のような吠え声が聞こえてきた。


 森の中で音が飲み込まれ方角さえも分かりにくくなっているとはいえ、曲がりなりにも斥候勤めを果たせるのだ。その音が何で、どこで鳴っているかはすぐにわかった。


 あたしは静かに、しかしできるだけ素早く動き、少し上った位置の巨木の上から俯瞰するように行商隊の隊列を見下ろした。


 語り手も殺すことのできる鋼の剣がぶつかり合いふるい手が殺し合っている。


 血と糞便の刺激臭が気流に乗って辺り一面を満たし、あたしの愛する紫煙の残り香を蹂躙する。


 貫頭衣の前掛け、一本杉に針金を巻いた線輪の意匠。敵は”石の徒”だった。


 唯一神へ供物を捧げることこそが我々人間の勤めであり、そのための繁栄だと憚らず宣う狂信者たち。


 百人を超え、護衛の数も多い行商隊へ損害を気にせず突っかかって来るような奴らで、こと商人からすれば一番嫌な相手かもしれない。


 商品を差し出せば目溢しの目途もたつ野盗や、金銭交渉や敵対国との交渉でうまくいなせる国家相手でもない。


 災害の一つ。


「もう少し早く戻っていたらあたしもあの仲間入りだったなぁ」


 道端で赤黒く乾燥し始めた元商人や護衛、そして石の徒自身の亡骸を遠目に、行動方針を練っているとそいつと目が合った。


 全身が総毛立つ。寒いのに滲む粘ついた汗が滴る音で意識が戻った。


 目が合っている。この距離で隠れている獲物を見つけられるか、と聞かれたら答えるのに自信を無くしかねない距離で。


 居ても立っても居られない。


 骨折するギリギリの高さを飛び降り、生傷が付くことも厭わず受け身を取って着地する。


 地面に降り積もった落ち葉が岩や枝を覆い隠していたおかげでどうにかなったが、失っていた冷静さを少し取り戻せるくらいにはやってから肝が冷えた。


「これだけの距離があるんだから、大丈夫。大丈夫」


 そう言い聞かせてひたすらに走った。


 下手な位置で道に出るとあいつと出会ってしまいそうで怖かったから、危ないなとは思いつつも森の中をひたすら走った。


 そして夜になり”コウサイ”が全然見えないのが幸か不幸か、喧噪はどこか遠くの世界の出来事のように静かだった。


 流石に道へ出ないと進めない。


 足元が固まっているだけで随分と楽になったが、それでも重い足取りを無理やり動かして進む。


 息を殺す気配がしたのはそんな時だった。


 石の徒ではない。やつらにそんな殊勝な態度がとれるわけがない。槍を持つ相手へ石ころを拾って突っ込んでいくような連中だ。


 道沿いの大きな木の根元。少年と女性。火を焚いていないから逃避行中。地理に明るくはない。大きな盾と剣一本。


 そこまで把握して、飛び込む。


「おやー驚いた! いや、何奴!」


 気さくに陽気に、驚かせて行動を抑止しつつも、いきなり攻撃されない程度に身構えて無防備になる。


 加減を間違えればおしまいだけれど、あたしはうまくやれたようだった。


「私はソルト。こちらはポフです」


 色の判別が難しいが、たぶん茶色の髪の少年がソルト。暗闇の中で浮かび上がる真っ白な女性がポフね。


 律儀な態度に光明を得て、あたしは情報を開示することにした。


 明らかに武芸者の二人組なら、安心を安く買えそうだと思えたから。

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