逃げたその先。
境界という山がある。いや、天高くそびえる山脈と言ったほうがいいだろう。
頂は雲の上に霞み、真夏であろうと雪が積もっている。当然の権利のように連なる山々も雪化粧を施され侍っているため、昔の人が境界と呼び出したのだ。
その、東西をほぼ分断し、中央海さえも抱き込むような山脈の裾野にタードラッド河は流れている。
どこから見渡しても見間違えることのないその山脈は、しかし逃げている側からすると迷惑この上ない。
「西と東、どちらに行こうと考えているのかしら」
川沿いに広がる森の木陰。それほど奥まで入らず、河の轟く気配が消えない程度の位置で野営し、少ない休憩を明けたポフが聞いてきた。
「西です」
「――本当に迷いがないのね。理由を聞いても?」
「東のアネロゲニ連合王国はあまりいい噂を聞かないのが一つ。今の時期だと行商人の流れが東から西へ向いているのが一つ。それから、縁故を頼れるかもしれないからです」
理由さえあれば良かったのか、理由があること自体には興味がないのか、ポフは平時の表情を崩さず、真っ白な首の毛をいじる。
「なんだか詳しいけれど、西の出身なの?」
「いえ、この塩の森に住んでいたんですよ」
「語り手が森に棲みついて悪だくみを企てているってのは本当だったのね」
木苺みたいな赤い瞳を大きく見開いて、ははーんと驚いて見せるポフに肘鉄を入れた。
「それはふるい手の偏見です。私の父が訳あって街で暮らせなかったので。でも畑もあって、小さいけれど家もあって、小川で採った魚や森の獣を狩って。かなりいい暮らしをしていましたよ」
「そのあたりのお話は、いずれ詳しく聞きたいのだけれど――」
「早めに移動したほうがいいですね。帝国の勢力圏は抜けたとはいえ、まだまだ追手が来る距離でしょうから」
懐に飲みかけた語り手を簡単に逃がしてくれるとは思えないわ、と不穏な言葉を小さく零すと私より先にポフは立ち上がった。
少しの憤りと強い不安。鼻息に混ぜて押し流し、じんわりと痛む足を動かす。
明かりを出さないために火を熾せなかったので、朝の寒気に体が悴んでいて余計に辛い。
「大丈夫?」
「少し震えが。でも、動き出せば大丈夫だと思います」
ふわっと木の葉の影から差し込んだ日の光が温かかった。
*****
そして二日経った。
神様の見る夢”コウサイ”があまり輝かない夜。
塩の森のおおよそ中央あたりに走る古い道。そこは、暴威でもって境界以南を支配したアルヴィフォルダン大帝国の命の道だった、旧道。
最盛期には荷馬車の行列が森の端から端まで連なっていたと言われるほどの塩を運んだ道にちなんで塩の森と呼ばれるようになった森の中で、もう二進も三進もいかなくなった私――と元気なポフ――は太い木の根元で体を横たえている。
というのも、私の体の痙攣が収まらないためだ。
「いやー、本当にキツい」
「ごめんなさい。役立たずで……」
「どうしようもないことだけど、言葉にしないとやるせなくて」
「本当に急だったし、治す方法も知らなくて」
原因ははっきりしていて、ジレジガリテ自由帝国に盛られた薬物による依存症状だ。分解を試みたが思っていた成分とは違ったらしく、うまく処理できずにいる。
頭は爛々と冴えているのに考えがまとまらない。手足は寒くもないのに震えていて、喉の奥を掻き毟ってしまいたくなる衝動が襲ってくる。
うーん何だろうこれ。何かで見た症状な気がするが、思い出そうとするほどに答えが遠ざかっていく。
「今、野盗なんかに会ったらたまらないですね」
「軽口叩く余裕はあるのかしら?」
首を向けると、ポフが口をとがらせていた。
そりゃそうかもしれない。震える体を擦っていたら、お姉さんに甘えていいのよとか言って抱き寄せてくれた。人肌の温かさが離れ難さを生み、こうして今も背中側から抱きしめてくれている。
ただし場所が本当に良くない。
道沿いの目立つ巨木の根元だ。地面がある程度均され、下草が適度に刈られたその場所は行商人なんかが野営を張るために仕立てたのだろう。
つまり人通りがあって、金目の物が動いている可能性がある場所ということで野盗なんかもやってくる可能性がある場所だ。
体に馴染んだ動きだけであれば、思考をまとめる必要もなくできるだろうから、ある程度の護身なら問題ないと踏んでここに居座っているわけだけど、できることならもう少し人目のないところに――。
「余計な口は利かないほうが良かったかもしれないわね」
夜の森の闇に似つかわしくない音。虫のささやきでも、不意に鳴る動物の活動音でもない。規則的で開けっ広げな走行音。
「まだ遠いですね。でも、確実にこっちに向いてますね」
「どうしましょうか」
「ひとまず離してください。あくまでもこちらは元気な旅人ということで」
「わかったわ」
そういうとゆっくりと体をかわして、私の隣へ落ち着いたポフは「もうどうせなら火が欲しいわね」と言った。
今からは熾せないと言うと不満そうだった。なんだか理不尽な気がしたが、それを言って余計な波風を立てるような時ではないのも事実で押し黙る。
そして闇に影が浮かび上がり、足音が最高潮に達する。
「おやー驚いた! いや、何奴!」
けたたましい声。
道を駆けて来た女が誰何の声を上げると同時に唐突に臨戦態勢を取る。なのに全く敵意を感じられないのはなぜなのだろうか。
「私はソルト。こちらはポフです」
「おお、これはこれはご丁寧に。あたしは――じゃなくて、ここにいるのは危ないよ! ささ、さっさと逃げよう」
けたたましいまま、ずかずかと近づいてきた。
見ず知らずの人を相手にするときは礼儀としても、お互いのためにしても不用意に近づくものではない。
言おうとするよりも早くポフが動き出し、女の足を払って地面へ引き倒した。
「痛ったぁ」
「見ず知らずの他者へ不用意過ぎなのではなくって?」
そう言ってから行動するくらいの余裕はあったと思うけど、言わずが花。
「たたた。だって、そこの少年体痺れて動けないんで、あたたたたッ! まって折れちゃうからッ!」
「なぜ知っているのかしら」
「ご挨拶いただいた時に、呼気からスニフとエタンの葉を混ぜた独特の香りがしたからッ! 少年、尖った呑み方だとは思うけど、その年でやるには生き急ぎだとあたしは思うよ」
ポフと顔を見合わせる。ポフはわかる? と問いた気だが、私は喉元まで出かかっていた魚の骨がぽろりと取れた心境だった。
「エタン! 分解できない痺れの原因はそれだったんですね」
早速だ。痺れさえ抜ければ何とかなる。
「
ホルドの輝きが森を照らし、暗闇に慣れた目がしばたたく。
「ええ、語り手ッ!」
ポフにより強めに組み敷かれながら器用に驚いた女は無防備に目を瞑っていた。
「ポフ、もう大丈夫です。彼女も悪い人ではなさそうだ」
「ソルト君。甘いんじゃなくって?」
言いながらも、ゆっくりと体を外し、私のそばに寄ってくる。
「痛たたた。なんだかわからないけど、助かった」
「非礼をお詫びします。ただ、いただいたご助言のおかげで痺れは取れました」
「いや、いいんだよ。ッ! それより、早くここを離れたほうが良いよ」
「何かあったんですか?」
女が立ち上がりながらあらましを語るに曰く、そこそこ大きな行商隊の斥候として移動していたのだが、隊商が雇った護衛なんかに質の悪いのが紛れていたらしく、戦いになっていること。
半日先駆けしていたため直接的な戦いには巻き込まれなかったが、後方から追手が来ていることに気が付いて逃げている途中だということらしい。
「無駄な目撃者は根切にしようとしてるんだろうね。だから、逃げないと殺されちゃうよ。語り手を……殺せるほどの腕前では、ない気もしないでもないけどね」
「ソルト君を殺すのは難儀しそうね」
「無駄に殺し合いなんてしたくないんですけど」
そう簡単に死なない自信はあるけれど、疲れているし目立ちたくないし、逃げるしか選択は無いように思えた。
「いやー人助けは気持ちがいいね。あ、あたしはニーセンドール・モリアーナ。気軽に愛煙家のニルと呼んで欲しいな」
そう名乗り、なぜか同行することが決定したニルは「愛煙家というところをしっかりと強調してね」と聞いてもいないことをはっきりと主張してきた。
【”Sleeping Talk”】
スニフ――落葉広葉樹。落葉するまえの熟した物を集め、丁寧に洗う。乾燥させたのち、表面を焙りながら粉末にする。独特の風味は紫煙愛好家の中でも通好みで、苦みの奥に仄かな依存作用がある。
エタン――地面から枝分かれするように生える蔓性の植物。旺盛に繁茂した葉や茎には強い弛緩作用のある成分が含まれていて、この毒にやられた動物の死骸を養分としてさらに繁茂する。一部のふるい手には嗜好品の一種となっている。
いつでも、娯楽と度し難い行為は紙一重だ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます