運が悪い。

「どういうことかしら」


 疑問符のつかない言葉がとげとげしい。


「おかえりなさい」

「どういうことかしら?」


 聞こえなかったとでも思ったのだろうか、今度は語尾を引き上げた。


「これまで運が悪かったのが、巡り巡ったんじゃないですか?」


 そう、あくまでも教えてはくれないのね。とひどく悲しそうな顔をする。


「そんな悲しそうな顔しないでくださいよ。喜んでくれると思ったのに」

「混乱しているのよ。優しくして欲しいのだけれど」

「何から話したらいいのか。まずは逃げません?」

「無理よ。わたしたち大隊かぞくは血の契りがあるんだもの」

「それ、もうありませんよ?」


「え?」


 これまでで一番解せないという顔をして土で汚れた眉を歪める。


「魂を持つものへどうやったのかはわかりませんが”所有の概念”はもう消えました」


 一番が更新されて、ひきつった頬を無理やり笑顔に切り替えると大きな乾いた笑い声をあげた。


 縛りがないとこんなに豪快に笑うんだ。


「それじゃあ、走りなさい。力の限り」


 切り替えが早いのか、それとも吹っ切れたからこその空元気なのか。


 絵を描くことができるならぜひ一枚仕立てたいくらいにまぶしい笑顔だった。



 そして息つく暇もなく走る。


 大勢の足音が地面を伝って響いてくるのを背に、ひたすらひらすら走る。


「ソルト君。もっと足上げて! 追いつかれるわよ」

「わかってますよ!」


 大円盾や旅荷物を持ってもらい、丸腰同然の状態で必死に走る。


 河にたどり着ければいい。河は遊走するホルドが多く、語り手からすればこの辺りでは比較的優位に立ち回れる場所だ。


 タードラッド河のほとりが見えてきているが、でもそこまでが本当に遠い。


「七三ッ! 止まれ。なぜだッ!!」


 追走者の影が波のようにうごめく。何人いるのだろうか、その中の誰かが叫んだ。


 悲痛とも激昂ともとれる、しかし凄まじく轟く声。静止しないことを不思議がっているのだろうが、結局のところ静止させたい本人に響かなければ意味がない言葉だ。



「本当に、従わなくてもなんともないのね」


 人同士で定めた約束ではなく、神様が定めたことを破るのは並大抵のことではない。やめておけと神様が決めたなら、それを破るための代償は大きく、破ろうと思うだけでも相応しい罪に問われるはずなのだ。


 それは何も語り手やふるい手ということでの制約だけではない。


 人々によって”所有の概念”と名付けられた、世界が均衡を保てるようにと設計された概念の一つも神様が定めたものだった。


 魂に結び付いたホルド、魂に触れながら加工された物質、今だ神様の物である深層に眠った金属などには”所有の概念”が宿り、ホルドによる操作を受け付けず、加工されることを嫌い、かくあれと定められた形を維持しようとする。


 どういうわけかこれが定められた彼女らは意識しようと無視しようと全く関係なく行動原理を縛られていたようだ。


 信頼も信用もしていないのに、裏切るということそのものが思いつけなくなる。自由意志があるにもかかわらず、自由がないことに矛盾を感じることができない。


 盤上遊戯の駒のようだ。


「これからは自由ですよ?」

「それ、わたしに言っているのかしら? この状況で戻っても殺されておしまいよ。それとも、今更わたしを見捨てるのかしら?」

「いや、ちょっと、そんな、ね」


 仲間の体ごと私を叩き切るという作戦を思いついた指揮官は、今際の際で自らが死ぬことなんかを悟ったのだろうか。その瞬間に”所有の概念”が喪失する音が聞こえ、彼女らを縛る物が何であったのか知ることができた。


 解き放たれる前の矢には”所有の概念”が存在しているのに、放たれた瞬間喪失するのは有名な話だ。これと同じく、まるで物のように扱われている。そう思うと私たちの願いを成就させる大きな壁の一つに感じられた。


 だから温め続けた奥の手を使った。”所有の概念”が存在する魂を持つ者を解き放つことはできるのか? と。


 今こうして必死に走る私を、涼やかな嫌悪で塗りつぶした恐ろしい形相の彼女が証明してくれた。


 少なくとも、命の危機を一緒に過ごすことができている。


「生きるのって楽しいですよね」


 呼吸で燃えるようにひりつく喉が勝手に言葉を紡ぐ。


「ふざける前に足を動かしなさい」


 私と違ってぽふぽふと軽快な足取りで、余裕綽々に走る彼女は全く楽しそうではなかったので、至って真面目だけれどもふざけるのは最後にしよう。


「そういえばなんて呼べばいいですか?」

「後にしなさいなッ!」


 タードラッド河の水の流れが夕日を反射してきらきら光った。





【”Sleeping Talk”】

 ―動物がいたら矢を放て、語り手が来たら矢はしまえ―

 ”所有の概念”を喪失した矢は語り手の技量によっては逆に操られ、射手への返礼品にされてしまう。そのため、ふるい手が持つ遠距離からの攻撃手段である矢の代わりに、全体が金属でできた短い矢を打ち出す弩(または石弓)が開発されたが、費用対効果が悪く復旧率は低い。

 ただし、本当に殺したい語り手へ国家単位で挑むとき弩は最良の選択となる。







 きっと興味深い日にできただろうというくらい長かった日も流石にとっぷりと暮れ、神様が見る夢が”コウサイ”として輝いて夜空と大地を明るく照らしている。


 無理して起きていたのだろう。いつもより気持ち明るいので視界は悪くない。


 それにしても、いや本当に危なかった。


 先日の雨で増水したタードラッド河には遊走するホルドが満ちていた。そのおかげで水面を滑り逃げることができた。


 小枝使い慣れた核もなく、旅荷物やなんやかんや――決して重いとは言えない――を抱えるのは緊張した。もし途中で集中力が切れて河に落ちたら濁流の中で殴り続けられるようなものだから、きっと生きれはいられないだろう。


 それでも死ぬ気で渡河すれば渡れることは証明できた。もうやらないけど。


「すぐに移動しましょう。彼らの別動隊が船を出していたらもう見えるくらいの位置にいても可笑しくないわ」

「ちょっと休ませてくださいよ」

「ダメ」


 旅荷物をしっかりと抱えなおし、大円盾を担いだ彼女は意気揚々と生気に満ちていた。


「それで、考えつきました?」


 何をとは聞き返してこない。なんと呼べばいいか、番号で呼ぶなんて味気ない、そう問いかけ続けていたから。


 河に落っこちたらなんて怖い想像を消すために無駄口を叩いていたというのも否定はできないけれど、やっぱり名前が無いと呼び辛くてしかたない。


「ええ、それで思いついたのだけれど」

「お、なんですか?」


 少し息を吸いなおして、鼻高々に私を見下ろす。


「ソルト君。あなたがわたしに名を与えなさい。生かした責任というやつよ」

「それならポフで」

「――そ、即決ね。驚いたわ」

「実は浮かんではいたんですよ」


 ふーんと訝しむポフは気に入ったのか、気に入らないのか、表情に動きがなかったせいで全く分からなかった。


「お姉さんにつけるには、ずいぶんと可愛らし過ぎる気もするのだけれど? 由来はあるのかしら」

「それより今は逃げないと」

「あら、こちら側なら森も近いし、語り手にとっては有利な場所でしょ?」


 これはお説教が必要だ。


「いいですか! 遊走するホルドも、木々が大地から吸い上げるホルドも、すべては有限なんですよ。無暗に使えばそこは不毛の土地となり、命が廻らない場所になってしまうんです。ポフを助けた場所は、十年は草木も生えない枯れた土地になりますよ」


 もちろん、あそこがジレジガリテ自由帝国の領土のままなら草木はまともに生やしてもらえないだろうから影響は少なさそうだけど。


「そんなこと知らないわ。お姉さんから簡単に逃げられると思わないことね」


 ひッ、と声が漏れなかった自分を褒めたい。


「あの、街で買い物とかしてる時とか、喫茶店で他愛もない話をしてる時とか、その……」

「――その?」

「尻尾がぽふぽふ動いていたんです、よね? なんだかその動きがすごく好きだったので。ほら名は体を表すって言うじゃないですか」

「ふううううううううん?」


 手に汗握る瞬間がこんな時に訪れようとは。切っ先を突き付けられている時よりも激しく心臓が暴れるなんて思ってもみなかった。


 でも、こんな時でも尻尾が動いているところを見ると、無意識なんだろうな。言わぬが花としっかり認識できている私は決して口にはしないけれど。


「わたしのおしりに随分とご執心ね」

「さ、逃げましょう。逃げましょう」


 幸いなことに身軽なので、細かい砂と丸い石が大半を占める走りにくい地面でもなんとかなる。


 じゃりじゃりと景気よく音を奏でて走り出せば、後ろから呆れたように追従する軽快な音が聞こえて来た。


 ああ、私は寂しかったんだな。


 自然とにやけようと火照る頬は走って体が温まっているからということにしよう。


 ポフからすれば見てどうということは無いんだろうけど、私は見られると恥ずかしいから一生懸命走ろう。


 目的地も決めてある。遠い場所だけれど、きっと大丈夫だ。





【”Sleeping Talk”】

 ――名は体を表す――

 そのものの実体や本質をよく表していることをさす言葉。

 名は魂を唯一縛り象ることのできる言葉であり、本人の自覚無自覚に関わらず本質となりえる。

 しかし、実体を定義するのではなく、行動原理となって実体そのものを変質させることさえある強力な言葉は、誰しもが必ず得られるわけではない。







 頭一つ分は小さな少年がわたしの前を耳を真っ赤にして走っている。


 決して早いとは言えないけれど、おおよその年齢を考えれば十分に体を鍛えていると言っていい。


 語り手なのにここまで体を鍛えているのはどうなのかしら。話に聞く限り、とても珍しいことなのだというのはわかる。大隊で学ぶ知識とだいぶ乖離があるのは、それだけこの在野の才能が異端の生活を送って来たことの証左に他ならない。


 まあいいわ。根掘り葉掘り聞きだすのは別に今じゃなくてもいい。


 十分に落ち着いて、ゆっくりと時間を過ごせる場所を見つけて。温かい服に包まれて、温かいご飯を食べながら。それとも、冷えた体を一緒に温め合ってでもいいわ。


 ああ、すごい。思いもつかなかった生活が、目の前に転がっている。


 街で見かける普通の少女が詰まらないと愚痴を零して消費する日常がある。


 さえずる小鳥の種類は違えども、さえずる声は変わらない朝、いつも通りのスープに、いつも通りのパンをひたひたにして食べる。


 存在を疑っていた神様には悪いのだけれど、その日差しに見守られながら畑を耕して、取れた野菜をたくさん食べさせてあげるの。


 街中でも野菜を売っている市は特に気にした様子だったし、きっと食べることは好きよね。ずっと同じ料理じゃ飽きちゃうだろうから、色々と育てないといけないわ。


 夜は神様の夢を眺めながらお茶を飲みましょう。


 小さめの長椅子に腰かけて、狭いよなんて言い合いながら。


 何の変哲もない、消費するような日々をわたしは手に入れるの。


 きっと素晴らしいわ。

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