雨の日は静かに凍みる。

 しとどに濡れた石畳が土を溶かして茶色く濁る。

 

 なにか悲しい出来事でもあったのだろうか、日が昇る前から降り続く雨はまだまだ止みそうにない。


「なんだか歪な街だなぁ」


 街路は人通りが無く、雨が石畳を打つ硬質な音だけが響いていた。


「帝国内では新造の都市だから、区画の整然性は高いと思うのだけれど」


 ナナさんが湯気の立つお茶が入ったカップを二つ持って来た。


「この通り通行人が極端に少ないですよね。なのに石畳の汚れは多い。目的がすごくはっきりした状態で造られた街だなって」


「どういうことかしら?」

「えっと、そこに人が集まる理由があったからできた街じゃないんだなって」


「うーん、深く考えすぎよ。お茶温かいうちに飲んで?」


 この窓枠なんかもそうだ。


 数を集めるのが大変な鋼を窓の意匠のために使っている。物々しいその雰囲気は、まるで脆い窓から中身が飛び出さないようにしているようだった。



 普通、まず真っ先に鋼が使われるのは農具であるべきだ。


 ヨーレンが耕した畑でとれる野菜は格別だった。私は毎日その成長を言祝いだ。


 そう。ふるい手が大地を起こし、語り手が豊穣を祈り、恵みを分かち合って生きるためにこそ鋼を用いるべきなんだ。


「ソルト君?」


 いつの間にか隣に腰かけたナナさんが木苺みたいな目で覗き込んできた。手にしたカップから昇る湯気が吐息で踊る。


 ふわりと香る良い匂い。


「すみません。考え事してて」

「ふふッ。いいのよ? お姉さんの入れたお茶が冷めてしまったら悲しいだけだから」


 目じりを下げて、口元を緩めて、朗らかな笑顔が湯気の向こうに見える。差し出されたカップを受け取り、私はぐびりと飲み込んだ。


「あちッ!!」

「うそ、そこまで熱くないわよ」

「えー。ふーふーしてくださいよ」


 ふーんと、なるほど理解したわとでも言いたげな。顎を少しだけ持ち上げて、半開きになった目で。ころころと器用に表情を入れ替えてナナさんが笑った。


 甘えている、甘やかされている。そういう行為だとわかっているけれど、ヨーレンとは違う柔らかさについつい気持ちを緩めてしまう。


 強大な獣の口の中で、その舌先で暖を取るような愚かさを無視するだけで、いい気分に浸れた。


 読み耽った本の中にも、時たま訪れる行商人の噂にも、旅人の体験談にも、ジレジガリテ自由帝国はふるい手至上主義の国だという話は出て来た。それでも語り手が皆殺しの目にあっているとは聞かなかった。なにかしらで仕事を得て、派手さはないが平穏な暮らしを送っているものと勝手に持っていた。


 だから、行って実際に自分で確かめて、話を聞いてみたいと思った。私たちの願いを叶えるためには必要なことだとわかったていたから。



 現実はどうだろうか。


 語り手を排除するための街造りは徹底的に。寝食を与え飼い殺し、娯楽を与えて浸らせて、出来上がった油断をついて取り込んで、取り込めなければ殺すのだろう。


 建物は語り手が操れない金属で覆われ、周囲は武装した兵士が詰め、食事には異物が混入されている。


 気付けた分だけまだましだ。やけに味付けの濃い食事が、しかも同じような味付けで出続けると疑問に思ってはいたんだ。


 朝食を食べると夕食もと欲する絶望感が日ごとに強くなる。依存性の強い薬物の苦みなのか酸味なのか、とにかく味を誤魔化すための料理。さんざんヨーレンに注意されたことの一つだったし、常套手段のはずだった。


 身を守るにも遊走するホルドは少なく、大地からホルドを吸い上げる草木は刈り殺され、語り手の力を発揮するにはあまりにも心もとない土地。


 従順な下僕足れば良くも悪くも飼育してもらえるのだろう。来たるべき戦場で期待を裏切らなければ、ふるい手の支配を甘んじて受ければ、一方的な搾取に文句ひとつ零さず身を捧げれば。


 これじゃあだめだ。このやり方では調和は無い。


「雨は結構好きなんですけどね」

「あら、珍しいわね。わたしはどちらかと言えば嫌いだわ」

「ほら、木の葉がぽたぽた受け止める音とか、川にぴちぴち滴る音とか、地面にじゅわじゅわしみ込んでく音とか、すごくいいと思いませんか?」


 んーと顎に手を当ててナナさんは考え込んでいる。


「――想像すると楽しそうだけれど、やっぱり雨は嫌いね。雨の日の訓練は過酷だし」


 香るように静かに微笑んで、思い出したように目を瞑って、とりとめのない話題が着地点を見失いながら続く。


 こういう穏やかさでいいと思うけど。世界はそれをまだ許してはくれない。





*****





「そう……。ここに残ってはくれないのね?」


 ラーフッテンの街に来てからすでに三十と二日経った。


 街の気配にも、寝床の匂いにも慣れて来たところではあったけれど、体に染みた薬を抜くにはここらが限界だろう。


「残念ではあるけれど。私たちの願いをこの国では叶えられない」

「語り手とふるい手の調和? そんなもの実現できるわけがないわ。ソルト君はもっと賢い子だと思っていたのだけれど」


 私とナナさんは向かい合って適度な間を開けて座っている。


「だからこそ出ていくんですよ」


 そう言うと、ナナさんは伏し目がちにしていた真っ赤な瞳を私へ向ける。


 睨みつけられているのか、呆れられているのか、蔑まれているのか、見下されているのか、それとも羨ましがられているのか。


 わかるようになった気がして、それでもわからなくて、こんな短期間ではやはり理解を深めることは難しいようだ。


「ナナさんも、一緒に行きませんか?」


 だから声をかける。


 聞かなければわからないから聞く。


「無理よ。わたしはふるい手とも、ましてや語り手とも違う。国に所有された資源で、必要を満たすために育てられたんだもの。そこに自由があっていいわけがないわ」

「でも、自由があっていいなら、ふるい手と語り手が争わなければ――」


「それは夢物語よ」


 木漏れ日のような柔らかい温かさに包まれた声音。ふうと息を吐いて、ナナさんが感情の高ぶりを抑制してしまう。


 吐き出した言葉に慈悲はなくとも、私のことを考えてくれていることは伝わる。


「悪いことは言わないし、わたしも上へ掛け合うから。帝国に従って? 殺されることなんてないし、美味しいご飯だってソルト君が満足いくまで出てくるわ。ただ、命令が下されたときにそれに従うだけでいいのよ」

「ナナさん」

「なによ」


「私は夢を語れる。そういう語り手でありたいと願っている。手を差し伸べて欲しければ、例え切り落とされようとも先に差し出さなければいけないことを知っている」


 すとんと、ナナさんのただでさえ薄い色が抜けていくような気がした。


 真っ白でふわふわの毛が逆立つように揺れていた。


 瞳がぎょろぎょろと煮えていた。


「分かったわ。好きになさいな」


 そう言うとナナさんは静かに立ち上がった。踵を返して、しっかりとした足取りで、遅くも早くもない歩調で部屋を出ていく。


 扉の閉まる音がやたらと大きく木霊した。



 どれくら経っただろうか。少しだけ考える時間が欲しくて、でも切羽詰まった理由もできてしまって、あらかじめ用意しておいた旅荷物と大円盾と小枝の状態を確認する。


 いつでも出発できる状態にして考える。


 今後の動きを。街の出方を。ナナさんのことを。


 それがまずかった。余計な時間だとわかっていたのに切り捨てなかった。


 咆哮のような爆発音が鳴り響き、建物が大きく揺れる。


 耳が軋んだように泣き、目が痛みで叫ぶ。


 強烈な音と光が炸裂したのだ。


 すぐに大円盾を構えた。


 入口は正面一か所。小窓には格子状の装飾が施されていて壊さなければ入れない。椅子二脚と机。床に椅子が倒れる振動が足裏に伝わった。


 素早く体を盾の影に潜ませると鈍い衝撃が腕全体を押さえつけた。


 訓練された上段からの振り下ろしだ。とても重く、しかし訓練通りの素直な一撃。


 半身になって右へ飛ぶ。肩が壁にぶつかる予想通りの痛みと、盾へ擦る一撃の音。

 

 足音が二人分になった。


 決して広くはない部屋だから、武器を振り回すことを考えると限界数だろう。


 私は小枝へホルドをまとわせる。淡く発光する円環を一重。上出来だろう。目や耳に頼らなかったお陰か、いつもより鮮烈に想像できた。


私を通せサーフィティオニティ


 背を預けるように壁へ寄り、小枝を向けてくり抜く。想像したまま、しかしより鋭い切り口で穿たれた穴を潜る。


ここを誰も通すなマーマーリテルマ


 敵のぼんやりとした影が壁の向こうへ消えた。


 良かった。壁びっしりに鉄格子でも嚙まされていたら体を通せなかったが、そこまで潤沢に金属が使われているわけではなさそうだ。


 よし、次。


 ここは隣の小部屋であり便所だ。位置取りだけは考えていたからよかった。


 床をくり抜くと異臭が部屋を一瞬で満たす。と、入口へ剣が突き刺さりわずかな隙間から異臭がまろび出た。


「奴は下水から逃げる気だッ!」


 扉の向こうから大声が聞こえ、幾人かの足音が動き出す。


 二撃目が振り下ろされる前に、大きな暗い口をあけた下水道へいろいろと覚悟を決めて飛び降りた。


 すぐに下水の壁を成していた物で便所の床だった場所を埋め尽くす。


 さっきの閃光とは違う意味で視界は全く役に立たなくなった。





【”Sleeping Talk”】

 語り手は定められた設計を無理やり捻じ曲げる権利を得た。しかし、不変であろうとする物事を捻じ曲げるにあたって、それらしくホルドを振舞わせるにはそれなりの才能だけでは足りない。

 一度始めた変化を御しきれなければ、その反動は当然に使用者へ返却される。

 

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