行商人のテオドーラ。
出発から三日目、タードラッド河の川岸に大きな船が止まっているの遠目に見つけた。
これだけ離れた距離でもわかる大きな船ならきっと語り手も同船しているだろう。つまり、きっとあれは商船に違いない。じゃなければあれだけ大きな船を川岸ギリギリまで寄せて平気なはずがないから。
そう結論付けて、私は歩き出した。運が良ければタードラッド河を渡ることができるかもしれないし、そうではなくてもどこかの街までは行けるはずだ。
運が悪ければ、引き裂かれるか、貴重な語り手として人身売買されるか、無償労働を強いられて食べ物のために仕方なく働くかくらいだろう。それでもどこかしらの街には行けるだろうし、いざとなったら戦うだけだから問題ない。
そう自分に言い聞かせて歩く。
川岸の丸みを帯びた岩が転がる地面は森とは歩き心地が違っていて、やはり好きにはなれなかった。それもだんだんと細かく、もはや砂になり、そして船にたどり着いた。
「やあ、君一人かい? お父さんやお母さんは?」
少し若く見えるけど、船の代表だろう。羽飾りのついたピアスは国と国をまたぐ商人の証で、そう簡単にもらえる物でも、嘘偽って簡単につけられるものでもないとヨーレンが言っていた。時たま森へやってくる商人がつけていた物とも色は違えど形はそっくりだし、間違っていないはず。
「私はソルトといいます。敵意はありませんし、私一人しかいません」
「これはご丁寧に。それでは、初めまして。僕の名前はテオドーラといいます」
動物の毛を編み込んだマントにごわごわのシャツやズボンと、全体的に厚着気味の男はテオドーラと名乗るとお辞儀して見せた。
流れるような動作で、普段からの態度なのか手慣れていているようだ。
しかし、警戒は怠れない。杖のようにつっかえている短槍はずいぶん使い込まれているように見えるし、鍛えた体形を隠すための厚着のように感じる。
「おやおや、ずいぶん警戒されてしまいましたね。そんなところで落ち着いてともいかなさそうですが、良かったら湯でも浴びていきませんか? ちょうど今日焚いているものですから、一人増えたところで経費は変わりませんし」
つらつらと流れるような言葉に釣られ視線を外す。
張られた天幕は簡易的な浴室なのだろう。忙しなく出入りがあり、入る人に対して出てくる人は誰もかれもが汗みずくだ。そのままタードラッド河へ飛び込んでいき、気持ちよさそうに水飛沫をあげていた。
急に頭がかゆく感じるのは、しばらく歩きっぱなしだったからというのもある。湯気でたっぷりと体をふやかして、冷たいタードラッド河へ飛び込めば垢もこそげ落ちるだろう。
けど、やっぱりここでいきなりは厳しい。何より大切な旅荷物をどうやって管理するというのか。天幕で目線がどうやっても外れてしまうのもいただけない。
「お気持ちだけ、いただきます」
「あっはっは。ずいぶんとしっかりした子ですね。いえ、失礼。その若さで一人旅とはなにか事情でもあるのでしょう。湯浴みとはいきませんが、お茶でも飲んでいかれませんか?」
少しだけ考えて「それではお言葉に甘えさせていただきます」と答えた。
ぜひぜひ、良ければ身辺のお話でもお聞かせください、というテオドーラの笑顔は心底嬉しそうに見えた。
「なるほど、タードラッド河を渡ってラーフッテンの街に行きたいと」
「はい。もしくは、この船の向かう途中のどこかの街で降ろしてもらえればありがたいですが……」
川岸に設けられた長椅子の一部を拝借して待っていると、マグカップ二つとお茶の入ったポットを携えたテオドーラが柔らかい笑顔を浮かべながら戻ってきた。
対面に座り、ポットから注いだお茶を二つのマグカップ両方から一口だけ飲み、片方を寄こす。毒は入っていないと言いたいのだろう。
「失礼ですが、ソルト君。何か特技はありますか? もしくはそれなりの所持金でも結構です」
一口熱いお茶をすする。どう伝えるか考える時間を作ろうとしたが、語り手であることを伝えるかどうか迷い、次に所持金について伝えるか迷い。
押し黙ったせいで訪れた沈黙が、訳ありだと教えてしまったと後になって気付く。
「実は、私は語り手です。黙っていてすみません」
仕方がないので語り手であることを伝えた。
引き寄せられる位置に大円盾もあるし、そもそも小枝を手放してはいないから、いつでも戦える。所持金の額を知られて足元を見られるよりはましな判断だったと思いたい。
「まったく気にする必要はありませんよ。大きな街のようにスキの試しがあるわけでもあるまいし。それに、放浪している語り手一人程度に後れを取るほど、僕の配下は軟弱者ではありませんよ。試してみたいというのであれば、いつでもと言いたいくらいです」
あっはっは、と小気味よく笑うとお茶を飲み、また小気味よく笑う。
第一印象からぶれない人当たりのよさと、きっと実力に裏打ちされた自信が垣間見えた。
この人自身が語り手か、少し遠方からずっとこっちを伺っている人が語り手か。
「ですが、なぜ語り手がジレジガリテへ? あそこはふるい手至上主義の国ですから、語り手は肩身が狭く息苦しいと思いますよ?」
「それは……」
「話したくないなら結構です。楽しくおしゃべりしたいだけですから僕は」
「いえ――。本で読んだりして、知識だけの頭でっかちになりたくないなと思いまして」
浮かぶ笑顔に塗りつぶされた表情は、その一言に心なしか反応した。それは極々わずかに目元が細くなっただけだけれど、見て取れる変化だった。
「ほうほう。そうですか。実は僕も、こう見えて結構な読書家なんですよ。船旅って船員でなければ時間に余裕がありますからね」
テオドーラは耳元のピアスをころころと弄ると、にやりと笑った。少しだけ意地悪で、けれど嫌味ったらしくはない笑顔は羨ましいですか? と言いたそうだった。
「経験することは良いことです。空想に浸るのも良いものですが、実体験に勝る感動はありません」
「ええ、ところで。いかがですか? 語り手としてなら働けますが、ラーフッテンか次の停泊地まで連れて行ってもらえますか?」
「船は溺れている人を見捨てない。巡り巡って、自分が溺れている時に助けてもらえるように。――ソルト君を保護して、目的の場所に連れて行ってあげることに何の戸惑いもありませんよ。まあ、奇しくも次の目的地がラーフッテンだったというのが大きいですけどね」
ぺろっと舌を出したテオドーラはいたずらに成功した子供にしか見えなかった。
【”Sleeping Talk”】
タードラッド河は中央海から西へまっすぐに流れる大河だ。北側には塩の森や隔ての森などの自然がたくさん残っているが、南側は西ジレジガリテ自由帝国により森がどんどん開墾されている。
神秘を暴き切った人間は、やはり恐ろしい。
「ラーフッテンの街まではどれくらいで到着ですか?」
「川下りだけなので二日でつきますよ」
広い川面を滑るように進む大型商船はほとんど揺れを感じさせずテオドーラの言の通りにどんどんと川を下って行き、二日でラーフッテンの街が見える位置までやって来た。
乗船している間は船賃として船員で語り手のカージタにくっついて補助をしつつ過ごしたが、船を動かすというのは様々な要因で成り立っているらしく、作業量は膨大だ。その分だけ忙しく、初めての船旅を楽しむというわけにはいかなかったが、思いのほか勉強になり楽しかった。
程なくして、テオドーラが声をかけてきたので少ない荷物を改めて確認し、ついでに食料や消耗品をいくつか買わせてもらう。
この後船は商船専用の入港口があり、そちらで荷物の積み下ろしを行うために順番待ちをするそうだ。当然警備は厳重で、乗組員登録されていない旅客はその前の待機桟橋で降りることになっているらしい。
甲板まで出ると私の他にも数名乗客がいたらしく、各々が手持無沙汰に突っ立っていた。
「それじゃあな、ソルト。気が向いたらこの船に乗ってくれや。そうすりゃ俺が楽できらあ」
「ええ、カージタさん。いろいろ教えていただいてありがとうございました」
真っ黒に日焼けした皺だらけの顔をにやりと歪めた。この二日間一番話していた相手がカージタさんだっただけに気心がしれているから言えることだが、笑った顔が怖すぎる。
それでも今の仕事に誇りを持っているのがよくわかるくらい、事細かな技術を教えてくれて、本当にそんなこと漏らして大丈夫なの? と心配になるくらい親切だった。
「カージタ。いくら気に入っても、そんな怖い顔をしていたら逃げられてしまうよ?」
「うるせえ、生まれつきの顔に愛着ってもんがあんだろがい」
「それについては同意見だけどね。僕が言いたいのはそういうことではなくてだね」
「テオドーラさんも、お世話になりました」
特に夕食に毎回招待してくれて、たくさんのごちそうをたくさん食べさせてもらえて、うれしかったです。とは直接言わないけれど、本当に突然現れた私に対して、驚くほどに柔和な人だった。
「いやいや、旅は大勢いたほうが楽しいし、時に助かるものさ。だから、ソルト君ももし船上で困っている人を見かけたら僕たちのことを思い出して欲しい。そうすればきっと船旅はもっと楽しくなると思うからね」
そうですね。短く答えたところで船が桟橋についたと軽い衝撃が伝えてきた。ゆっくりとはいえ大きな商船の停止した衝撃は乗っている人をじっとさせてはくれない。
足腰の屈伸でうまく勢いを逃がしてやる。カージタさんもテオドーラさんも慣れたもので、平時と見分けがつかないくらい揺れなかった。
「それでは、またどこかで」
梯子がかけられ、他の乗客の流れに便乗して下船する。
「そうだ、ソルト君。これを持っていきなさいッ!」
見上げるとテオドーラさんが何かを投げ落とした。
結構な高さから落ちてきたが何とか受け止められた。それは革紐で結ばれた一冊の本だった。
「僕のおすすめだ。どうやら結構な読書家のようだから持って行ってくれ」
「ありがとうございます!!」
高く本を掲げて、逆の手を振る。
柔和な笑顔と、厳めしい笑顔が軽く手を挙げて、商船はあっという間に桟橋を離れていった。とはいえすぐそばでまた待機らしいけど。
本を抱えなおし、私も足早に桟橋を離れる。川上に新しい船が見えたのもあるが、ラーフッテンの街は本当に目と鼻の先だ。どうせなら街の中でゆっくり寝たい。
二日ぶりの地面は石畳で歩き心地は悪かったけど、気分はよかった。
【”Sleeping Talk”】
商船の語り手は多岐にわたる補助を十全に熟せなければならない。そのためには高い集中力と持続してホルドを操作し続ける技術が求められるため、なりたくてもなれない語り手がたくさんいる。
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