第8話 前準備

 眠りについた雪乃下を起こしたのは、佐倉からの着信だった。眠気まなこでスマホを手に取って、佐倉からの電話に出る。


「先輩おはようございます」


「おはよう」


 まだ起ききってないふやけた声の雪乃下とは、対称的に佐倉の声は元気が沢山詰まっていて朝のテンションではなかった。さながら外の気温と部屋の気温のようにテンションの寒暖差があった。


「こんな時間にいったいなんの電話だい」


「先輩、明日デート行くんですよ。お菓子買いに行きましょうよ」


「遠足に行く前の小学生か、お前は」


 外は寒いので部屋にいたい雪乃下だったが、佐倉がお菓子を買いに行きたいと言えば、起きてすぐにでも行こうとすることを見透かされているせいで電話をかけられていることを本人は気付いてない。


 部屋にかかっているジャンパーに横目をくばって、タンスから靴下など防寒するための物を引っ張り出す。


「いいじゃないですか、行きましょうよ」


「分かったよ、行くよ。三十分後ぐらいに迎えに行くから家で待ってて」


「先輩はなんだかんだ言いながら行ってくれるので好きですよ」


「じゃあ迎えに行くから待ってて」


 好きという言葉が照れくさくて、誤魔化すように電話を切る。顔が熱いのは暖房のせいではなくて、きっと自分から発せられている熱なんだろうな。


 マフラーを首に巻いて、手袋をつけて、ニット帽を被って、重装備になった雪乃下は財布とスマホしか入ってない斜めがけのカバンをかるい、家で待っている佐倉の元へ歩き始める。


 溶けきっていない雪が靴を少しだけ濡らしていく。曇天の空は雪をその中にまだ蓄えていたいらしくて降らすことはしていなかった。寒さをもった風が耳を赤く染めていく。体が一回身震いして、眼鏡がズレる。


 寒がる体をさすりながら佐倉の家のピンポンを一回押す。はーい、と大人びた女性の声が聞こえて、その後に活気のある幼い声の女性が出てくる。


「せーんぱい!早く買いに行きましょ!」


 厚手のジャンバーを上に羽織っただけで外に飛び出してきた佐倉。後ろの方から大人びた女性―佐倉凛が申し訳なさそうに顔を覗かせた。


 物腰が柔らかくて、冷静的な彼女は佐倉薫の母とは思えないほどに全てが異なっていた。


「ごめんね、雪乃下くん。こんな朝早くからこの子の付き合いをさせちゃって」


「いえいえ、僕も薫と出かけるのは楽しいですから。気にしないでください」


 二人の時は佐倉と呼んでいる雪乃下だったが、凛と喋る時はその場に佐倉が二人存在しているので、ややこしくないようにと薫で呼ぶようにしていた。


「薫、雪乃下くんにあまり迷惑をかけるじゃありませんよ」


「分かってるよ〜。ほら、先輩行きましょ」


 凛の前ではより幼くなる佐倉は素っ頓狂な返事を一つだけ返して、雪乃下の背中をグイグイと押してバツが悪そうに家を後にした。


 佐倉の家から徒歩五分の所にある、こぢんまりとした古ぼけた駄菓子屋さん。おばあちゃん一人で店を回していて、開店時間は朝の八時から昼の一時までとなかなかに短い。体力的にもこの時間が限界とのことらしい。そのため、今日の朝に佐倉から電話がかかってきたのだ。


 立て付けの悪い扉を横に開くと、のほほんとした穏やかな雰囲気をまとった駄菓子屋の店主の尼子あまこが二人を迎える。


「あら、透ちゃんに薫ちゃんじゃない。いっらしゃい」


 尼子はのったりとした声のトーンで喋りかけてくる。


「尼子おばあちゃん元気?」


「私は元気だよ。二人はお菓子を買いに来たのかな?それともデートかい?」


 雪乃下と佐倉が付き合っていることを知っている尼子は冷やかすように頬を上げながら言う。二人は、そうです、と答える。


「あらあら。そうなのかい。なら、お菓子一個サービスしてあげる。好きなの持っていきなさい」


「え、いいの!?」


「おい、佐倉。遠慮というのをな」


「いいのよ、透ちゃん。気にしないで持っていってちょうだい」


「尼子さんがそう言うならお言葉に甘えさせてもらいます」


 二人は買うお菓子とサービスのお菓子をレジに持っていく。カゴいっぱいにお菓子を詰めた佐倉と、片手で持ち切れる量しか買わなかった雪乃下は尼子にお菓子のお礼をもう一度言って駄菓子屋を後にした。


「先輩、明日楽しみですね」


「だな。明日が早く来ればいいな」


「待ち遠しいですね……明日が」


 雪乃下はこの時は知らなかった。明日が早く来ればいいと思っていた自分の心が、明日なんて来ないでくれと願うようになるなんて。


 この笑顔を見れる権利すら奪う理不尽な事件に巻き込まれることも、この時の二人は知らなかった。

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