第5話 久しぶりですね先輩

 すっかり陽も落ちて、町が夕焼けに染まる。教室は放課後のゆったりとした空気に包まれていた。昼のような活気的な影はなく、静寂という言葉が似合う教室に雪乃下は一人でいた。

 居残っている理由はこれといって大層なものは無いが、パタパタと可愛らしい上靴の音を響かせながら一年生の教室から上がってくるはずもない人を待ってしまっていた。


「まあ、来ないよな」


 十分程待ってみるが当然来ない。分かりきった答えに独り言を空気に漂わせながら帰る支度を始める。支度が終わり、椅子を机の中に片付けているとこちらに近づいている足音に気付く。その足音はパタパタというよりかはバタバタと少し急いでいるような感じがした。徐々に近付いてきて、扉に手をかけて教室の中に入ってきたのは待っていた人ではなく、夕陽に汗を輝かせる佐々木だった。 雪乃下は心の中で、だよなと呟く。佐々木に対しての失礼な思考を頭を振って煙のように散らせる。


「おろ?雪乃下まだいたのか。何してんだ?」


「帰りの支度。そっちこそ何しに?」


「あっ!そうだった。水筒を教室に忘れちまってよ!これから激しい運動するってのに水筒無かったらミイラになっちまうよ」


「佐々木はなにか部活入ってるの?」


「サッカー部だよ。毎日毎日ボールを蹴ってる。雪乃下は入ってねえのか、部活」


「いや、何も。ただ毎日家に帰るだけの日々を送ってるよ」


「帰宅部ってやつか!おっ、あった。これだよ、これ。それじゃあ、俺今からまた練習に行くから、これ以上ここにいると監督にドヤされちまう!じゃなあ、雪乃下!また明日!」


 佐々木は雪乃下と喋っている時も忙しそうに水筒を探し続け、見つけたと思ったらさっさと教室を後にしていく。どこまでも忙しないやつだな、と思いながら雪乃下はその背中にまた明日と言う。


 久しぶりにまた明日と発した雪乃下。誰かに向けて言ったのはずっと前のことで、遠く昔のように感じれて、でもそんな遠くない過去ですぐ近くにある。頬は柄にもなく緩んで、足は軽快なリズムを今にも刻みそうで、こんな気持ちになったのは四ヶ月前以来だった。外に出たらまだ夏でもないというのに暑くて、紅くなっている太陽を見る。


 校庭からはサッカー部の声が聞こえてきて、音楽室からは吹奏楽部の演奏の音が聞こえてきた。青春の一ページを彩るような美しい光景が今ここに広がっていて、雪乃下はこの瞬間だけ過去を忘れることが出来た。


 雪乃下が家に帰ると母親がリビングから顔を覗かせた。


「おかえり」


「ただいま」


 母親は声には出さなかったけど、いつもと様子が違う息子の姿に気付いていた。活気が戻ったというのであろうか、佐倉がまだいたころの息子がそこには投影されていた。毎日、毎日、楽しそうにただいまと言って、スマホを片手に部屋へ駆け上がるあの息子の姿を懐かしく思い出す。


「お風呂湧いてるよ、入ったら?」


「そうするよ」


 いつも違う一日を終えた雪乃下はベットに入り眠りについた。また悪夢を見るんだろうな、と思いながら。


『先輩〜!起きてください〜』


『……なんだよ母さん。まだ寝てたいよ』


『誰が母さんですか。私の顔忘れちゃったんですか?酷いですね、先輩……』


『……佐倉?』


『そうですよ。佐倉ですよ』


『な、なんで?なんでいるんだ』


『なんでって、先輩が可哀想に思えたからですよ。いつもいつも悪夢見て、クマを作ってるのが可哀想に思えたんですよ』


 ぼやけた瞳に映るのはもうこの世界には存在していないはずの恋人―佐倉薫だった。涙で視界がぼやけて見えるのか、ハッキリと顔が見えない。けど、雪乃下は声だけで分かった。最愛の人だと。


『ど、どういうことなんだ。ここは夢の世界なのか?それとも死後の世界?』


『どんな冗談ですか。死後の世界なわけないですよ。もう、先輩が無駄なことばっか考えるから話せる時間少ないですよ』


『当たり前だろ、はずの佐倉が今こうやって俺の目の前に出てきて普通に喋ってるんだから、困惑のひとつもするよ』


『……懐かしいですね。こうやって先輩と喋るの。昔を思い出します。先輩は元気でやってますか?ちゃんと前を向いてますか?』


『まあ、うん。ぼちぼちとね』


『あっ、その言い方嘘ですね。先輩は嘘つく時そうやって濁すくせがあること知ってるんですよ』


『さぁ、なんの事やら』


『先輩とまたこうやって話せて良かったです。それじゃあ、元気で健やかに過ごしてくださいね。私ずっと見てますから』


「待ってくれ、佐倉。まだ話したいことが!」


 目を覚ました時、そこに佐倉はいなかった。頬っぺをつねってみるが痛くて、腕を叩いてみるけど痛くて現実だということをありありと突きつけられる。


 あれが夢だったのか、それとも現実だったのかそれは分からない。あまりにも鮮明で現実のように会話が出来て、でも佐倉はどこにもいなくて。悪夢は見なかったが、違う意味でこれは心にくる。そう思いながら雪乃下は顔を洗いに行く。

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