第2話 隣には誰の姿もない。

 から時は止まることを覚えてくれずに、ただ刻々と針を進めていき雪乃下は三年生に進級した。


 やつれた頬、目の下に出来上がった真っ黒いクマ、それらは雪乃下に宿っていたはずの人間味を奪っていっていた。


 クラスメイトはそんな雪乃下を心配し、話しかけたりしてくれていたが、癒えてない心では誰かを相手にすることは難しくて冷たく適当にあしらっていた。だんだんとそんな態度しか取らない雪乃下の元からは人が消えていっていた。


 このままではいけない、当の本人が嫌ってほど分かっていた。永遠に過去を見つめて、変わらないものに縋って変わるように願って、それが無意味だと分かっていても、雪乃下は前を向けずにいた。足は底なし沼にハマったように動かずに、心はどんどんと沈んでいき、気付いた時には過去に囚われていた。



『危ない!』


『……せん…ぱい。泣かないでください』


『ダメだ、ダメだ……。頼む、頼む』


『げんきで』


「……ダメだ!待ってくれ!!」


 ハァハァと息切れを起こしながら、目を覚ます。何かを掴もうとしたように腕は垂直に天井に向かって伸びていた。腕をだらんと重力に従わせて、おでこにのせる。頬には涙が伝わった痕跡が残っていて、寝る度に見る悪夢は今日もやってきた。


 額にかいた汗を服で拭いながら、洗面所に顔を洗いに部屋を出る。悪夢を見るせいで寝不足がずっと続いており、やつれた原因でもあった。鏡に映る雪乃下の姿は日を増す事にやつれていた。一年前の健康優良児だった頃の面影は見る影もない。


 蛇口から出てくる冷たい水が、悪夢を見た頭を冷やして少しばかりかスッキリした気になる。タオルで濡れた顔を拭いたあとは、母親が作ってくれた朝食を食べる。両親も日に日に痩せていく我が子の姿を心配しているが、本人が大丈夫だと強く言うので言及することはやめていた。


 朝食を食べ終えてもすぐには制服に身を包むことはなかった。時計がさしている時間は7時で、制服に今から着替えたとしても無意味だと雪乃下は分かっていた。悪夢のせいで毎日毎日早くに叩き起され、その後の二度寝はまた夢の続きを見てしまうかもしれないという恐怖に怯えてしまっているためすることは無い。そのせいで目の下のクマは睡眠時間という栄養素でスクスクと立派になっていた。

 クマをひとなでして、これが消えることは無いのかと雪乃下は思う。顔からの覇気を消している一つの要因として、そこに存在しているこれはとてもじゃないが今後の人生にいい影響を及ぼすとは思えない。溜息を口からこぼすが、こうなっているのも全て自分のせいだということは重々承知していた。


 時間がただ過ぎるのをベットに腰をかけながら待つ。スマホで時間を潰すことは無かった。昨日のうちに見たいものは見てしまっているから、朝になって使うことはなかった。チクタクと時計の針が動く音だけが部屋だけに響く。


 針が7時30分をさした時、ベットから腰をあげて制服に腕を通す。ここ最近感じるようになったことだが、紺色のブレザーが少し小さくなったような気がしていた。腕をピンと伸ばした時、前までは手首部分は完全に隠れていたのに、今は伸ばすと手首の部分が少しだけ見えるようになっていた。


 高校三年生で身長が伸びることはあるのだろうかと不思議に思ったが、残り一年しか着ることがない制服だからこんなことを考えてもしょうがないと思い、次の身体測定まで結果は預けることにした。


 一年生の頃から変わらないサイズの靴を履いて、今日もまた学校へ出かける。


 通学路は同じ高校の人で溢れ返っている。友達と談笑しながら楽しそうに通っている。しかし、雪乃下の隣にはいてほしい人はいてくれなくて、隣には誰の姿もない。空白は心すらも白くしていって空虚をつのらせる。


 校門の前に立っている生活指導の先生におはようございますと言って学校に入ってしまえば、その後はほとんど喋らずに一日を過ごす。必要最低限の会話は、人との喋り方さえも忘れそうになる。

 今日も一人で細々と教室の隅で埃のように、静かに過ごしていく。


 昼休みになり学食を食べに行こうと、机から立ち上がると一人の男性が話しかけてきた。


「なあ、雪乃下。飯くいに行こうぜ」


 確か彼はと、雪乃下は考え込む。記憶のページをめくりにめくって、ようやく彼が何者なのか分かる。スポーツ刈りのほんのり小麦色の彼は同じクラスメイトの佐々木。


 優しさから佐々木は雪乃下を食事に誘ってくれていた。しかし、そんな佐々木に対する雪乃下の返答は人間の心を失ったようなものだった。


「いや、いい。一人で食べに行きたい」


 冷たく氷山のような鋭い言葉で誘いを断る。佐々木はそうかと一言だけ言い、待っていた友達の元へ走り出した。


 雪乃下は廊下から聞こえる言葉に耳を傾けていた。


「なあ、佐々木アイツ誘うのやめろよ。三ヶ月か四ヶ月ちょっと前ぐらいからずっとあんな感じなんだよ。なんでも、付き合ってたが事件に巻き込まれた何かでずっと心を閉ざしてるとか。だっせえよな、うじうじさ」


 佐々木はその話をただ無言で聞いていた。どう思って聞いているのか分からないが、心底胸糞が悪い。


 雪乃下は、唇をかみしめ今にでも殴りに行ってしまいそうな、拳を血が出るほどまでに強く固く握りしめていた。


 お前に何が分かるんだ。人を亡くすという気持ちをお前に分かるはずがない。何も知らないで、知ったような気で喋られたことに吐き気を催す。雪乃下は教室にかけていた鞄を肩にかけて、行こうとしていた食堂を通り過ぎて靴箱へ足早に向かった。


 下靴に履き替えて逃げ出すように、正門を飛び越えて学校を飛び出す。頭の中は完結されてない怒りと憎しみで溢れ変えていて、その中には自分へのやるせない気持ちも混じっていた。


 乱雑に家の扉を開けて、階段をかけ登り自分の部屋に入る。カーテンが締め切られていて部屋は薄暗かった。肩にかけていた鞄をベットに投げ捨てて、雪乃下は扉に体を預けるように座り込む。

 心臓の音の演奏が指揮者によって今すぐ終わりを迎えてしまえばいいとそう思う。そうすれば、この気持ちも無くなってしまって楽になれる。なれるけど、それはなんの解決にもならないとも分かっているけど、分かりたくもない自分がいた。交差する気持ちが波のように寄っては押し返して情緒は不安定になっていく。


 整理されない頭を体が強制的にシャットダウンをし、深い眠りについた。


 次目を覚ました時、外は真っ暗闇に包まれていて少ない街頭の光が申し訳なさそうに道を照らしていた。薄暗かった部屋は、真っ暗で足の踏み場すらも見えない。それに固い床で寝てしまったせいか、体もそこらじゅう痛かった。軽いストレッチをしながら、整理された頭でぼーっとする。


 寝る前は不安定だった情緒も、今は正常に真っ直ぐな線となって落ち着いている。ベットに投げ捨てた鞄からスマホを取りだして、時間を確認すると時刻は8時になっていた。家に帰ってきたのは、食堂に向かう時間だったので恐らくだが12時頃だろう。そこから8時まで寝ていたとなると、かなりの睡眠時間だ。


 そして、腹も空いていた。昼ごはんも食べずに、学校を抜け出したので当然だろう。しかし、学校を抜け出して午後の授業を全てサボったから親に連絡がいっていることだろう。何か言われても仕方ないと思いながらも、とりあえずはお腹が空いたのでリビングに向かう。


 リビングの扉を開けると、ちょうど母親が夕食の準備を終えていたところだった。父親はまだ帰ってきてない様子だった。


 雪乃下の顔を見ると、母親は安堵した表情を見せた。


「良かった、何ともないのね」


「どういうこと?」


 雪乃下は母親の言葉の意味が分からなかった。何か言われるとは真反対の言葉が投げかけられ、余計に意味が分からなかった。


「貴方が学校を抜け出したって先生から聞いたから、何かあったのかと思ってね。ほら、佐倉ちゃんのこともあったから」


「あぁ、いや。なんも無いよ、ただサボりたい気分だっただけだよ」


「それもそれでどうかしら?とりあえず、いいわ、ご飯食べましょう」


 母親はあの事件のことをずっと気にかけてくれている。雪乃下が事件のことを引きづっていることを母親は知っていた。そして、何かあったことも本当のことだがこれ以上心配はかけたくないという気持ちから、嘘を口から吐き出した。


 真っ白いキャンバスに描かれた思い出という名の絵に、嘘という絵の具で全てを塗り潰せたなら、心は少しは楽になるのだろうか。

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