友の葛藤

 * * *


 クウィルが薄暗い書庫でベツィラフトの書に没頭して、すでに五日が経つ。


 ザシャは毎日書庫に顔を見せた。頼れる友はずいぶん禁書を読み込んでいて、おかげでクウィルの理解は早かった。


 クウィルの知る歴史とは違う、おとぎ話のような記録。もっといい解決が無かったのかと言えるのは、自分が後から生まれた者だからだ。

 歴史から、呪術の限界がわかる。加護の切れ間、空白の十六年の存在だ。魂の契約が完全なものなら、新たな聖女がこの世に誕生した時点で、王は魔獣を鎮めている。

 生まれ変わりという未知への恐れもわかる。王を聖剣に封じるのは、当時の人々が選び得た最善だった。


 だが。全ての積み重ねの結果を今、リネッタひとりが背負わされている。明らかになった現実が、クウィルの胸に重い。

 リネッタが聖堂に戻った日から、魔獣の群れは動きを鈍らせた。騎士団が張った前線隊を警戒するように、遠巻きに徘徊しているという。

 巡礼が始まったのだろう。リネッタが今何を強いられているか、容易に想像がつく。それが耐え難い。


 聖剣と聖女のことを知っていたのは、ザシャだけではない。王家と聖堂の上位官、侯爵家。そして――ラングバートの父と兄も。

 クウィルの慕う者たちが勢揃いしていることが、より気持ちを沈ませる。

 疲れた目を閉じて、こめかみをぎゅっと押さえた。


「なぁなぁクウィル。呪術、欲しい?」

「……解呪だけはものにしたい」


 ベツィラフトの書には、呪術研鑽けんさんの歴史が記されている。かの小国は魔獣の巣窟アッシュフォーレン山脈に近く、狂化した魔獣を手懐てなづけて共生してきた。


 使役という言葉は出てこない。代わりに頻繁に使われるのは、調和だ。

 その調和は、ベツィラフトの血が知っているとある。呪術とは異なるのか、術の扱い方は記されていない。呪術を用いた魂への干渉、それによる攻撃と治癒。書はその記録に割かれている。

 解呪についての記述はほとんど無い。ラングバートの父が希少だと言っていたとおり、使い手は少なかったのだろう。


 たった一文。

 血を結び、他者を想え。これだけが手がかりだ。


 母オルガから受け継いだ解呪は、すでにクウィルの中にある。神殿に張られた精神干渉の呪術。リネッタの感情を封じた呪術を、無意識にクウィルは破った。


 ――娘は、永遠に王の魂とともにあることを。

 ――王は、娘の魂がともにある限り、魔獣を鎮めることを。


 契約を解呪すれば、リネッタを自由にできる。

 だが同時に、契約から解かれた王は、王都に魔獣の群れを呼び寄せる。王に喰われたベツィラフトの魂がある限り、簡単には契約を解けない。


「聖剣、破壊したらどうよ」

「塵ひとつに宿られたらどうする。魂の在りかがわからなくなる方がまずい」

「……魂めんどくせぇ……ほんとにあんの? 全員だまされてることない?」

「確かめようがないから、ここまで誰もが手を出せなかったんだろう」


 目に見えないからこそ厄介だ。

 思案に暮れるクウィルのこめかみに、左右からザシャの拳がぐりぐりと押し付けられた。


「意外とさ、契約解いたらなんとかなるかもよ? 団長いわく、加護の切れ間が昔の記録よりずっと穏やかになってるらしいしさ。ベツィラフトの魂、少ぉしぐらいは解放されてんじゃない?」


 楽観的な友の言葉に笑って、クウィルは目の前の書を閉じた。禁書庫の薄暗い天井を見上げ、ふっと息を吐く。

 

「かも、では駄目だろうに。魔獣を相手にするのは黒騎士なのだから」

「オレらに遠慮すんなって言ってもクウィルだからなぁ」


 クウィルの閉じた本を棚に戻しながら、呆れ交じりにザシャが笑う。


「じゃあ、使役は? 最強魔王様とおそろいの魔獣使いになる。魅力的じゃあありません?」

「それは窮地に運良く使えれば、ぐらいだな。私ひとりで魔獣全てを掌握しょうあくできないなら、討伐には貢献できそうにない」


 王都内部でオルトスと対峙したあのとき。確かにクウィルは、オルトスを従えたのだろう。だが、群れで迫る魔獣相手に、一体一体従えている余裕はない。


「……その見切りの良さがな。さすがのクウィルだよ」

「ザシャ?」


 友の口振りがいつもと違う気がした。

 ランタンを寄せて、ザシャの顔を照らす。薄ぐらい中で棚に寄りかかっていた彼は、眩しそうに目を細めた。


「オレ、転移術が使えるかもしれん」

「リングデル王だけの秘術だろう? 血に受け継がれていると決まったわけじゃない」


 ザシャは苦笑し、クウィルの隣の椅子を引いて座った。


「面倒なご先祖さんの魂をオレの中で飼うのよ」

「それは……ザシャに、転移させると。そういうことか?」


 ひひ、と子供染みた笑いで彼は応じると、ひとつ大きく伸びをした。


「魔王さん、かなり血にこだわるらしくてさ。遠縁でも自分の血筋があるなら、さすがに移住すんじゃないかって上は思ってる」


 人差し指を、禁書庫の天井に向ける。ザシャの動きが示すのは、アイクラントの上層――王家だ。


「そしたら、もう魔獣は使役させないしリネッタ嬢に手出しもさせない。オレがなんとかするよ」


 クウィルは咄嗟とっさにザシャの腕を掴んだ。

 ザシャはそんなクウィルの手を叩いて、なんでもないことのように続ける。


「オレの意志だか魂だかが負けて乗っ取られたら、団長やクウィルがオレのこと殺してくれんでしょ。それはそれでありかと思って。まぁ、生まれ変わったあとの責任までは持てんけど」


 いつも飄々として、明るく気さくなザシャ・バルヒェット。クウィルは十年も隣にいた友の、本当の顔を初めて見る。


 自分を王の駒と言い切った彼は、いつからこの禁書庫に出入りしていたのか。


 リングデルの書は初日に一度開いたきり。クウィルが自力で読めないことを理由に、あれからずっと棚に置かれたままだ。まるで触れてはいけない物のように、一番端に追いやられている。


「ずっとここにいたからさぁ。力に魅入られたかも知んねぇわ」


 自嘲のようなものを浮かべるザシャの横顔を隣に。クウィルは腕組みして、椅子の背もたれにぐっと背中を預けた。

 十年、ともに歩んできた。隊を任されたのはザシャが先だった。魔術ではクウィルが勝っても、剣術では一歩遅れをとる。黒騎士団の第一隊。その長を務めるのは、団長に次ぐほまれだ。並大抵の努力で成せるものではない。


 何より。

 ――ベツィラフトの魂を喰って、呪術を強奪したんだ。

 そんな強い言葉を選ぶほどに、ザシャは転移術をうとんでいる。


「ザシャには……似合わない」

「なに、似合う似合わないの話なの」

「魂を。人の積み上げた研鑽を。奪い取るような男じゃないと、私は信じている」


 ひと呼吸分の沈黙を挟み、ザシャはけたけたと笑いだした。腹を抱え足を踏み鳴らし、最後にはぺたりとふたつ折りになって苦しげに笑う。


「そんなに可笑しいか?」

「いや、クウィルだなぁと思ってさ」


 目尻に涙まで浮かべた友は、笑いの波を乗り越えて「あー」と天井を見上げた。


「似合わないって言うなら。黒着てなくて剣の無いクウィルこそ、オレは落ち着かない」

「実は私もそう思う」

「だから、うまく片付けてさ。クウィルも騎士に戻って、全部終わったら。そしたら飲もうなぁ。飲んで騒いで、くだらない血筋に悪態ついて夜明けまで歌う。オレ、そういうの好き」


 ザシャの腕の隙間から、笑う口元だけが見える。

 クウィルも笑って、友の肩を叩いた。

 

「私も嫌いじゃない。肉がつくとありがたい」

「とびきりイイ肉な。殿下におごってもらおうぜ」


 顔を上げたザシャは、いつもの彼らしい、あっけらかんとした口調に戻っていた。

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