第四章 幸福で残酷な夢の終わり

新しい縁

 背中の皮膚がひきつれる。肩甲骨に動きの悪さを感じる。腕を動かせば痛みはさらに強くなるのだが、身振りの一切を封じてかまえるわけにもいかない。応接テーブルを挟み、今クウィルの前にいるのはクラッセン侯爵。貴族院議長であり、マリウスの父である。


「愚息が申し訳ないことをした」


 その侯爵が伯爵家の次男に向かって頭を下げるものだから、クウィルはいやいやと両手を振って応じる。で、痛い。

 息子と違って人格者だと噂に聞くが、謝罪のためだけにラングバート家まで来るとは思わなかった。


「本来ならば罪に問われるところ、私闘として納めていただき、卿には感謝以上の言葉がない」

「いえ。事実、あれは私闘です」


 団長ギイスの侯爵位で対抗して、クラッセン家の門を開けさせる手筈だった。正式に騎士団として乗り込み、あくまでも聴取の名目でマリウスの身柄を押さえる。もちろんクウィルもその手順を破るつもりはなかった。

 クラッセン家の庭から、犬に追われてぼろぼろのニコラが飛び出して来るまでは。


 ニコラのお手柄である。あと少し突入が遅れたら、マリウスがリネッタに何をしていたかわからない。


 結果的に、クウィルがひとり窓から侵入し、一方的にマリウスを伸した。後からリネッタの証言とマリウスの自白が取れたとはいえ、あの時点で飛び込んだからには私闘だ。


 騎士としてはあるまじき行為。クウィルは謹慎を言い渡された。ちょうどいいなとギイスが笑い、ザシャに宿舎を追い出された。


 こうしてクウィルは六日もの間、タウンハウスで過ごすことになってしまった。


 謹慎という体裁のため、一日一枚の紙を『私闘厳禁』で埋める、地味に胆力たんりょくのいる事務仕事を土産に持たされている。事実上の療養だ。


 隣のリネッタは穏やかな社交顔で、侯爵の謝罪を受け入れた。

 そもそも私闘としたのは彼女の発案だ。おかげで社交界には仔細を伏せられ、かつ侯爵家に恩を売れることになった。隣で社交の笑みを貼る婚約者に、クウィルは感心するばかりだ。


 マリウスはクウィルと同じく謹慎処分。今は侯爵邸で失意の底にいる。

 クウィルが気絶している間。意識を取り戻したマリウスは、リネッタに『護衛隊の中で、クラッセン卿を特別に思ったことは一度もありません』と痛烈な一撃を食らった。そしてとどめに社交用の笑みを受けて、再び卒倒した。


「伯父が近づかなければマリウス様がここまで思い詰められることは無かったはずです。わたしの事情で侯爵閣下にご迷惑をおかけしました」

「セリエス嬢がお気になさることではない。ただ……」


 侯爵は言葉を濁し、少しの間を開けて重たげにまた口を開いた。


「セリエス伯に自重願うには、クウィル殿に何かしらの立場が必要になろう」


 それはクウィルも今回の件で痛感した。黒騎士団第二隊長のクウィル・ラングバートでは、リネッタ・セリエスの婚約者として格が足りないのだ。


「いかがだろう。白騎士団に移り、貴族として人脈を築かれては」

「そ――」

「それは駄目です」


 クウィルより先に、リネッタがきっぱりとした口調で否定した。


「クウィル様がご自身を曲げることはありません」

「しかしだな、セリエス嬢。また同じようなことがあれば」

「伯父のことは考えます。わたしが何とかします」

「そうまでお考えならば、いっそ養子の縁を解かれてはいかがだろう。私が口添えすれば議会は通せる」


 マリウスの件での恩ということだろう。侯爵のありがたい提案だが、リネッタは軽く眉根を寄せた。


 やはりと、クウィルはその顔を見て思う。彼女のあらゆるところから、強い感情を見て取れる。

 戸惑いが喉の渇きを呼んで、クウィルは紅茶に口を付けた。


 隣でリネッタが意を決したように顔を上げた。


「縁組みを解けば、伯父は奥方様と離縁してわたしとの婚姻に動きます」


 吹いた。盛大に。


 正面の侯爵に紅茶を噴射しなかったのが奇跡だ。

 慌ててハンカチーフを取り出し、「失礼」と口を押さえた。侯爵は侯爵で、手にしたカップを震わせながらテーブルに戻す。議長職の自制心を見せつけられ、クウィルは自分の恥ずかしさに汗をかきながらテーブルを拭いた。


「セリエス伯には以前からそのような素振りが?」

「情欲ではありません。そこまでして、伯父は中央に戻りたいのです」


 リネッタが頑なにセリエス伯爵を父と呼ばない理由がわかった気がする。


「なるほど。ならば正式に婚姻を結ばれる直前に、伯爵と縁を切られるのが良いだろう。そうなるとやはり、クウィル殿に強固な肩書きが欲しいところだが」


 侯爵はクウィルとリネッタの顔を見て、相好を崩した。


「これ以上は老婆心というものだろうな。何かあれば力になろう。今はまず、身体を労られるといい」


 手を差し出され、クウィルはその手を握り返した。マリウスのおかげというのが癪だが、思わぬ縁ができたものだ。

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