三つ数えたその先

 マリウスは背中からテーブルに突っ込み、呆けた顔で身を起こした。そこに、すぐさま追撃が入る。これまた盛大にマリウスは吹っ飛んで、壁に激突した。


「何の真似だ、クラッセン卿」


 怒りに満ちたクウィルの声を聞き、リネッタは顔を上げる。

 黒髪よりも、赤い琥珀の瞳よりも、彼の背中の切り裂き傷が目に飛び込んだ。


「クウィル、様」


 殴り飛ばされたマリウスより、よほど重傷なクウィルがいる。黒狼を討伐したその足で来たのだろう。

 確かに魔獣の体液を浴びて、赤黒い汚れが各所に染み付いている。独特の獣臭さが鼻につく。クウィルが屋敷に直帰したがらない理由はこれかと、リネッタも納得した。


 リネッタの呼び掛けなど聞こえもしないのか。クウィルは壁際で目を回すマリウスの胸ぐらをつかんで引き上げた。


「答えろ、マリウス・クラッセン。なぜ彼女が負傷している」

「……き、さまが。誓約錠で縛ったり、するから」

「錠?」


 クウィルの目が、リネッタに向けられる。右手でかばっていた誓約錠を、手を振って揺らした。切れていない。守ったぞと、そんな報告のつもりで。

 クウィルの顔が、見たこともないほど険しくなった。


「あれを切っていいのは彼女だけだ」

「きさまを尊重して躊躇われたのだ。だから私が切って差し上げる。聖女様を自由にするのはこの私だ!」

「……自由にする?」


 クウィルの拳が、きらきらと光の粒のようなものをまとい始める。


「氷?」


 細かな氷の粒が窓からの陽光を浴びて輝く。


「魔術はいけません! クウィル様! 聞いて!」

「自由にするなどと大言たいげんを吐くのは」


 駄目だ。

 リネッタはベッドを飛び降りた。しかし。


「彼女を名前で呼んでからにしろれ者がぁッ!」


 制止、届かず。

 クウィルの右拳が、見事マリウスの頬にめり込んだ。


 マリウスが目を回して床に伸びる。

 リネッタは急ぎ彼を転がして、顔面を確かめた。自分の容姿に自信のある人のようだから、傷によっては、クウィルを地の果てまで追いかけるなどと言い出しそうだ。

 思ったより頑丈なのか、あるいは魔術でかばったのか。美しいと評判の彼の顔に目立った損傷はない。

 では、マリウスのことはひとまず放置で良いだろうと判断する。先に手当てが必要なのは婚約者のほうだ。


「クウィル様」


 呼び掛けると、リネッタの声はようやくクウィルの耳に届いたらしい。

 彼がどこか叱られ待ちの大型犬のような顔でリネッタに向き直った。


 クウィルの両手が、リネッタの傷を守るように右手を包んでくる。だが、彼はすぐさま弾かれたように手を離した。

 マリウスの剣先がリネッタに作った一筋の傷。そこに、絵筆で刷いたような赤が乗っている。


 クウィルの右手は、リネッタよりずっと傷だらけなのだ。


 ――こんな状態で、駆けつけてくださった。

 

 互いの血が触れあったような右手の甲をじっと見つめる。すると、クウィルががばりと頭を下げた。


「申し訳なかった。魔獣相手なら貴女は安全だからと、ひとりにしてしまった」

「ニコラをつけてくださったではありませんか」

「ニコラは優秀ですが、それはタウンハウスの中だけのことです」

「そんなことおっしゃらずに。この場所を知らせてくれたのは彼女でしょう?」


 かっくんとうなずくクウィルの姿が、こんなに立派な大人なのにどこか可愛らしい。

 三つ数える間だけ抱けるはずの可愛らしいという感覚。それがふわりと胸を温かくした。

 なんだろうかと、リネッタはほのかな熱の宿った胸を押さえる。


 何か、おかしい。


 胸が騒ぐ。三つをとっくに数えたのに。

 あまりにも多くのことが押し寄せたからか。それでも、動く心はひとつひとつ薄れていくはずなのに。


 ひりひりと続く痛みに目を向ければ、出所でどころは右手にできた傷だった。

 傷が消えない。ラングバート家にきてすぐに試した傷はもっと深かった。こんなかすり傷なら、とうに消えているはずなのに。


 ――どうして、こんなに痛いの。


 痛いだとか、くすぐったいだとか。

 クウィルがニコラに伝えたことは全くの見当外れだ。リネッタには、もうぼんやりとしかわからない。身体のあらゆる反応を拾うことを、この心はやめた。

 だったら。

 

 ――どうしてあんなにも、くすぐったいと思ったの。


 公開試合の後。クウィルの指が肌を薄く掠めるのが、耐えがたくて声をあげた。

 そうだ。

 あのときすでに、変化は起きていた。


 戸惑いがほどけず心にこびりつく。

 しだいに指先が震えて、それが全身に広がっていく。

 この感覚を知っている。リネッタは巡礼の中にこれを捨ててきた。

 

 怖かったという、余韻よいんだ。


 止まらない震えを押し隠そうと、自分の身体を浅く抱く。

 そこに、クウィルの手が寄ってきた。彼の指が、乱れたリネッタの髪を拾って後ろへと流す。


「無事で良かった」


 彼の、傷の浅い左手に頭を撫でられた。指がリネッタの傷に触れてくる。そして、その手は最後に頬に添えられた。

 いたわるような温かさに、リネッタの中で何かがぜた。


「あ……」


 じわりと涙がにじんだ。三つ数える間の、温かいという思い。それが消えかかり、けれどさらに奥から新しいものが沸き上がる。

 クウィルが無事でいる。どう見ても重傷なのにここにいる。

 息を荒らげて、体液と血にまみれて、ひどいにおいをさせて。

 リネッタを守るために。


「ク……る、さま……」


 臭いが急に強くなった。

 違う。自分がクウィルの胸に飛び込んだのだ。

 もう長い間動かなかったものが、突然に動き出す。今さらの恐怖と、安堵と。彼の手の温もりと、トクトクという心臓の音に誘われるように。


「どこか痛むのですか」


 的外れな彼の言葉を可愛いと思う。こぼれたリネッタの吐息は喜びに震えていた。


「……セリエス嬢、あの、私は今途方もなく汚いので」


 戸惑う彼の声も耳に優しい。そうだ。この人は一度として、リネッタを聖女と呼ばなかった。そんなことに今さら気づいて、涙が止まらなくなった。


「クウィル、様」


 彼の顔を見上げる。涙のせいでせっかくのクウィルの表情が歪んで見える。指先で涙を散らし、もう一度目を合わせた。


 ――なんて、綺麗なひと。


 深い紅を抱いた琥珀の双眸。少し日に焼けた端正な面輪。癖の無い、艶やかな黒髪も。

 ベツィラフト由来の特徴に引け目を感じるあまり、クウィルは知らないのだ。自分の容姿がどれほど高い位置にあるのかを。彼に送られた釣書が、必ずしも興味本位ばかりで無いだろうことを。

 二十五歳になるまで彼が誰の手も取らずにいたことに、リネッタは心底から感謝した。


 クウィルの秀眉がわずかに寄って、そこから戸惑いが顔全体に広がっていく。リネッタにも、今自分の中で何がどうなっているのか理解できていない。

 同じ戸惑いを抱けている。今この胸の内に。


「来てくださって、嬉しい」


 自然と口角が上がる。笑うとは、こんなに容易たやすいことか。


「嬉しいです。クウィル様」


 この名の響きを、好ましいと思う。何度でも呼びたい。そのたびに自分の心が息を吹き返すような気がする。


「クウィルさま」


 繰り返し、繰り返し。呼ぶほどにリネッタは嬉しく、けれどクウィルは顔を赤くしていく。


「お熱ですか? そうだ、背中にひどいお怪我をされて」

「いや、たぶん、外傷とは関係の無い……そんなことよりセリエス嬢が、か、顔が……なんだ、これ」


 言葉までおぼつかなくなってしまった彼の顔に慌てて両手を添える。


「大丈夫ですか!?」

「だ、大丈夫では、ないかもしれ、ない」

「誰か人を! というか、ここはどこなのでしょう!?」

「ああ、セリエス嬢。貴女、やっぱり」


 天然物なのですね、というよくわからない言葉を残し、クウィルが倒れてしまった。

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