肌だけが正直もの

 マリウスは頬から耳まで朱を走らせ、ぎちりと奥歯を鳴らした。


「その目に力があるのだろう! 何か仕掛けたな!」

「残念ながらこの目はお飾りだ。ベツィラフトの呪術は何ひとつ受け継いでいない。ああ、でも」


 観覧席のリネッタは立ち上がり、勝者をたたえる拍手を打ち鳴らしている。相変わらずの無表情だが、クウィルと視線がかち合うなり左手を上げた。誓約錠を揺らし、観衆に見えるよう腕の位置を調整して、社交の微笑みを浮かべる。


 その顔に、さらなる歓声があがる。

 彼女は自分の使い方をよくわかっている。


「今日、私がクラッセン卿に勝利したのは、聖女の加護によるものでしょう」


 この国で王に並ぶほどの支持を得る者に、勝利をおさめてこいと言われた。これで勝たなければ騎士の名折れだ。


 羞恥しゅうちに震えるマリウスを放っておいて、クウィルは一礼して退場する。

 いつの間に下りて来たのか、闘技場の出口前にリネッタが息を弾ませて立っていた。


「いかがでしたか」

「美しい剣技だとユリアーナ様がおっしゃっていました。感じることができれば、わたしも歓声かんせいを上げたはずです」

「貴女が、歓声をですか」

「きゃあ。クウィルさま、すてき……のようなものを仕上げてお出ししたかと思います」


 不意討ちに、ふぐっとむせた。表情が伴わないうえに、抑揚のまったくない声。棒読みとはかくあれというような口調が、彼女をすっとぼけているようにみせる。


 ふぐふぐと笑いを押さえ込み顔を背ける。するとリネッタは、下からクウィルの顔をのぞき込んできた。小首をかしげた拍子ひょうしに、彼女の髪がひとふさ頰に垂れた。


 まだ観衆から見られる場所だ。仲睦なかむつまじく見えるよう振舞うほうが良いのだろうと、クウィルはリネッタに手を伸ばした。


 頬にかかるシルバーブロンドを、彼女の耳へかける。

 クウィルの指は、離れぎわに彼女の耳の上端うわはしをかすめた。


「ひゃっ」


 みょうな音がした。

 目の前の婚約者からである。


「……え」


 何が起こったのかわからなかった。

 リネッタも咄嗟とっさに自分を理解できなかったらしい。ただ、声を押さえるためか口に両手をかぶせた。今しがた飛んできた奇妙な声は、やはり彼女の口から突いて出たもののようだ。


 クウィルは婚約者をしげしげと見つめ、彼女の耳元に口を寄せた。


「何か、失礼がありましたか?」

「ふっ、んぅ」

「セリエス嬢?」


 クウィルのささやきに身をよじり、やがて彼女の相好そうごうが崩れる。作りものではない。耐えかねてこぼしたような、今まで見た中で一番自然な笑みだ。 


 ――どういう理屈だ?


 リネッタの顔を見ながら、ものは試しと人差し指で耳をくすぐる。

 彼女の手は慌てたように耳を押さえ、もう片方が騎士服の袖をつまんで引いた。


「お、やめくだっ……ふふっ」

「くすぐったいですか」

「見ればおわかり、でっ、ひゃんッ!」


 ぐっと手を掴まれる。

 頬を紅潮こうちょうさせて、上目遣うわめづかいのリネッタである。青い瞳は少しうるんでさえいる。


「くすぐったいの、本当に駄目なのです……お願い。クウィル様」


 手を離すと、彼女の顔は無を取り戻していく。この状態はどういうからくりの産物か。

 クウィルは婚約者の変化を見守りながら思考して、なるほどと思い至った。


 肌の感覚はあるのだ。

 身体の反応に呼び起こされる顔の変化は、心より早い。嬉しいでも楽しいでもない、もっと本能に近いもの。くすぐったくて、その体感をもてあまして笑った。それだけだ。


 探求心はむくむくと起き上がる。

 クウィルが手を止めたことで、すっかり油断している様子のリネッタ。彼女の首筋に、すいっと指を沿わせる。


「ふっ、んん!」

「お、おぉ」


 これは、理性を危険にさらすかもしれない。あまりにあまりな彼女の声を聞き、自分の中の欲が年相応としそうおうに起き上がる。そんな自分に、クウィルが他人事ひとごとのように感心したときだった。


「ん、んん。クウィル。婚約者と親睦しんぼくを深めるにしても、場所は選べよ?」


 ギイスの声でハッとする。慌てて周囲を見回すと、観衆が気恥ずかしそうに、あるいはニタリニタリと、こちらを見守っていた。


「これは失礼しました」


 現実に引き戻されて、襟を正す。


「悪びれない顔で謝罪されてもな」

「単に、セリエス嬢の体調確認でしたので」


 隣のリネッタを見ると、彼女は自分の耳たぶをくにくにと引っ張っている。くすぐったさを痛みで相殺そうさいしようとしているらしい。

 またもクウィルの口から、ふぐっと笑いがもれた。澄まし顔なだけに、そういう挙動きょどうがどうも可愛らしく見えるのだ。


 ギイスはもう一度咳ばらいを挟み、リネッタに向けて騎士礼の姿勢を取った。


「黒騎士団の長を務める、ギイス・キルステンだ。聖女様のご婚約、お喜び申し上げる」

「ありがとう存じます」

「強いだろう、貴女の婚約者は」

「はい。ですが、騎士の御前試合が魔術を行使こうしして良いものとは存じませんでした」

「その点は、重々抗議こうぎしよう」


 リネッタの遠回しの文句もんくに、ギイスが笑顔で応じる。


「魔術を許可すれば、婚約者殿は白騎士どころか闘技場まで消し飛ばしてしまうのだが。お見せできないのが残念だ」

「堅牢な氷壁と、聞き及びます」

「それはまぁ……何も魔術の腕ばかりではないふたつ名でもあるが」


 目の前が社交界と化すのを見て、クウィルはじりじりと後ずさりで距離を稼ごうとした。

 ――と、背中をドンと押された。

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