第6話 天空のテラス
高度一万二千メートル。水を見つけた。
このブロックはメンテナンス用途に特化されている。今では動かなくなった修復ロボットの集団が壁のくぼみに収まっている。
水が封入されたタンクがいくつかあった。どうやら外部の薄い大気から水を収集して蓄積する機構が存在しているようだ。水は電気分解して溶接用ガスの生成などにも使える万能素材だからか。
顔を水面に突っ込んで、心行くまで飲んだ。純水だ。味は無かったが今までにこれほど旨いものは飲んだことがない。何らかの熱源が容器の底に埋め込まれていて凍り付くのを防いでいるように思えた。
火照った顔に冷たい水が心地よい。ここの所、徐々に体温が上がり始めている。咳も頻繁に出るようになってきた。体の奥のどこかがひどく重く、むず痒い感じがする。
ブランガ・ウイルスは死ぬ直前までは比較的に体が動けるタイプのウイルスだ。こいつは罹患者が最後の最後までウイルスをまき散らすことができるようにと設計されている。
カンフル剤を飲み、気力を振り絞って体を起こす。無駄に休んでいてもこれ以上病状が回復することは無い。
高度一万五千メートル。壁の一部に完全に透明な部分を見つけた。どうやらここは中間展望室だ。湾曲した地平線が眼下に広がっている。色は青を基調として、それに纏わりついた大気が薄い膜となって被さっている。それと対比するかのように空の方は黒さが増し、その中に無数の星々の光が見えるような気がした。
足が重い。カンフル剤をまた飲む。
高度一万八千メートル。もう食料は無いので、水だけを喉に流し込む。元から食欲がなくなっているのが有難い。今日吐いた血は今までで一番多かった。目じりからも血が流れていることに気づいた。
だが俺はまだ登るのを止めない。
高度二万メートルを越えたので、祝いに水を一口飲み、最後のカンフル剤を飲み下した。
体が燃えるように熱い。今の俺の体の半分はブランガ・ウイルスでできているに違いない。頭がフラフラして、たまに意識が飛ぶ。重力はかなり小さくなっている。そうでなければとうの昔に動けなくなっていただろう。
小便の代わりに血が出たのには驚いた。
ふらつく体を気力で支える。
感染してから今日でどれだけの日数が経ったのだろうか。俺の命はあと何時間ぐらい持つ?
残り四万九千九百八十キロメートル。その数値に絶望した。
だがそれでも立ち止まる気はなかった。
高度二万五千メートル。四つん這いで進む。
そしてついに最後の階に辿りついた。
第二展望室。それがこの場所の正式名称だ。
螺旋階段はここで終わり、全体が透明な永久素材で覆われている。昼間ではあるが空はもう黒を基調とした一色で塗りつぶされている。横にある太陽が光を投げかけていて、俺の影を長く引き伸ばしている。地上から続く塔の最上段がここで、ここから先は軌道エレベータの超ケーブルが上へ向けて伸びているばかりだ。
この遥かな上空に錘の役をする展望テラスのブロックがあり、その遠心力で塔全体を引き上げている。そう知識球で学んだ。
俺の旅はここで終わりなのか。螺旋階段が途切れている以上、ここから上には登ることができない。
俺はこの展望室に設けられているベンチに座ると、残りの水の全てを飲み、ひどく重く感じるようになってしまった水筒を後ろに投げ捨てた。
あの遺跡を見逃して、代わりに静かな人生を得るという可能性もあっただろう。ある日いきなり女から妊娠を告げられて、大人しく村の農夫として生きる未来もあったのかも知れない。だが、結局、俺はここにいる。ここに居て、一人で死にかけている。
二週間前には想像もしなかった結末。
地上二万五千メートル。思えば遠くへ来たものだ。
俺は咳き込み、大量の血を吐き、記憶はそこで途切れる。どうやら意識を失ってしまったようだ。
目が覚めた。どのぐらいの間、気を失っていたのだろう。かすむ目で俺は時間を確かめた。
もう深夜だ。
それから気がついた。どうして夜なのに明るい?
夜空には星があるが、それどころじゃない明るさだ。
壁面が発光していた。つまりここには電力が供給されているのだ。天空の塔の最上部には太陽電池パネル群が展開されている。そこで作られた電力は塔の下へと送り込まれる。
あの大穴がそれを断ち切っていたのだ。大穴より上にある部分には、電力が供給され続けているということか。
もう俺は四つん這いでしか動けない。震える手で内部の壁面に触ってみる。微かに温かい。
何とか体を起こして操作パネルに触れる。
操作パネルが発光した。上向き矢印がついた部分をなぞる。
どこかで起きた振動が徐々に大きくなり近づいて来た。そして永遠が過ぎたと思える頃に、目の前の壁面が開いた。
天からの贈り物。人員運搬用軌道エレベータ。
俺はその中に転がり込んだ。気力を振り絞り、一際大きく作られている最上階ボタンの模様を叩く。この階より上に配置されている唯一のボタンだ。
静かに軌道エレベータは上昇を始めた。高度計の数値が驚くべき速度で上昇する。
途中で一瞬だけ上下が反転した。重力がゼロに近いので特に困ることは無かったが。
三十分が経過すると軌道エレベータはまた静かに減速を開始し、やがて止まった。奇妙な訛りに聞こえる標準語で最上階展望台天空のテラスとのアナウンスが行われた。
開いた扉から俺は転がり出た。
そこは宇宙の底だった。
床はすべて透明で、その足下に広がる漆黒の満天の中に無数の星々が輝いていた。重力は軌道エレベータの中のどこかで忘れ去られ、今や俺は僅かな遠心力のみで床へと押し付けられている。それもほんのわずかで、弱った体でも何とか動くことができる。
展望テラスの周囲には煌めく太陽電池パネルが広がっている。その幾つかは宇宙デブリの直撃を受けて破壊されていたが、残りはしぶとく生き残っていて天空の塔に電力を供給していた。
ここが終着点だ。
俺は床に設置されている椅子を一つ見つけ、そこに座り込んだ。もはや体は動かせない。病気は最終段階に進んでいる。
まだ生き残っていた電子機器が作動を始め、部屋の中に音楽を流し始めた。簡単にこの展望テラスの由来を述べ、本日の訪問客一名と誇らしげに宣言した。
恐ろしく愚直で馬鹿な機械ども。ここにいるのはただの違法な侵入者なのに。
俺は日記帳を取り出すと、ペンを探した。無い。どうやらどこかで落として来たらしい。
くそっ! 神様は何て意地悪なんだろう。
襟元に止めておいたピンを取り出すと、俺はそれを指に刺した。そしてその血とピンで最後の文章を書き留めた。
こうして誰にも知られることなく俺の冒険は終わりを告げた。
ここで宇宙を足下に踏んで、世界で一番高く、また同時に一番深い塔への登攀は五百年ぶりに完遂されたのだ。
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