第5話 大穴

 望遠鏡はこの時代にも僅かながら存在する。だから天空の塔のこの部分に大きな傷があることは分かっていた。

 永久素材のはずの塔の外殻に大穴を開けた原因が何かは想像の域を出ない。その中でも有力視されていたのは隕石の衝突説、そしてもう一つは世界崩壊戦争末期で使用された兵器である荷電粒子による砲撃だった。

 ここまで来て見ると荷電粒子説が正しいように思えた。塔の外壁の端は何かの高熱で溶かされていたからだ。数千度の熱でもびくともしない永久素材を熔かすとはいったいどんな兵器なのだろう。想像すると身が震えた。文明崩壊にも良い点があるとすれば、今は世界のどこにもそんなものは残っていないということだ。

 ブロックを封じる扉を開け始めた段階で、風が流れ込む替わりに吹き出し始めたので、俺は大穴に到達したことを知った。慌てて簡易酸素マスクをつけると、慎重に扉を開いて行く。しばらくその場に留まり、ブロック内の空気が十分に逃げるのを待ってから改めて扉を大きく開く。でなければ風の勢いに押されて塔の外へ吹き飛ばされてしまっただろう。

 気圧は地上の三割というところか。酸素マスクが無ければ身動きも取れなくなるところだ。気温は零度付近。もの凄く寒い。

 あの遺跡から防寒服を見つけて手に入れてはいたが、それでも寒い。できれば電熱機能付きの防寒服が欲しかったが、リストによるとそれは幾重にも積み重なったパレットの下にあり、取り出せなかったのだ。

 ありったけの元気を搾りだし、荷物から登攀のための道具を出す。

 螺旋階段は崩壊しているから、『中』、つまり軌道エレベータシャフトの横の壁を登るか、あるいは『外』、つまり塔外殻の外側を登るかのどちらかになる。

 当然俺の選択は『中』だ。

 『外』は眼下に八千メートルの垂直の壁を見ながらの登攀になるので、さすがに避けたい。誰だってそう思うだろ?

 頭上の半分削られた壁を見る。超兵器の傷は、塔外殻だけではなく、軌道エレベータシャフトも削っている。それどころか、もしやその内部の芯である超単分子ロープにまで被害を与えている可能性があった。

 この天空の塔が今も立ち続けているのは奇跡に違いない。ひとたびこの超ロープが切れたりすれば、塔の半分は地上に崩れ落ちて大災害を引き起こすことになる。

 登る前にここで休憩を取ることにした。

 携帯食を齧る。もう一週間も携帯食だけだ。もしここで一杯のシチューを俺に差し出すなら、代わりにこの汚れた魂を差し出してもよい。本気でそう悪魔に願ってみたが、悪魔は現れなかった。

 替わりに俺の鼻から一滴の血が流れ落ちて簡易酸素マスクの中を鉄の匂いで満たした。軽く咳も出始めた。

 これが祈りに対する答えか。ついにブランガ・ウイルスの発症が始まったのだ。

 ならばぐずぐずしている暇はない。症状は激しくなれど治まるはずが無いからだ。これより先は死神のカウントダウンは容赦なく進む。

 内壁の下に立ち、上を見つめる。

 そのとき、俺の横に置いておいたリュックにぶら下げていたコッヘルが、金属音と共にはじけ飛んだ。

 とっさに俺は横に転がり、伏せたまま周囲を見回した。

 最初は銃撃かと思った。天空の塔の内部に何らかの防御設備があってそれがまだ生きていたのだと。だが次の攻撃は来なかった。

 恐る恐る手を伸ばして転がったコッヘルの破片を取り上げる。綺麗に二つに切断されている。切断面に指を這わす。かすかに熱を感じる。

 伏せたままごろりと上を向いた。耳を澄ませる。今まで外から吹き込む風の音に紛れて聞き取れなかったが、微かに何かが風を切る音がした。それも一つではない。無数の見えない何かがそこにある。

 コッヘルの破片を上に向けて投げ上げる。

 一回。二回。そして三回目でコッヘルは何かに打たれまた真っ二つにされた。

 それで何が起きているのかが分かった。

 過去に塔を破壊した攻撃は超単分子のロープも傷つけていた。切れた超単分子の繊維の端は自由になり、風に吹かれて振動する。

 細すぎて目には見えず、自ら切れるには丈夫過ぎ、触れた物を切断するだけの鋭利さがそれにはある。

 超単分子の目に見えない高速の刃。それが俺の頭の上を無数に踊っている。

 ということは『中』は登れない。登ろうとすれば細かく切断されてひき肉になる。

 俺はずるずると床を這いずり、外壁の大穴へと向かった。


 永久素材にはハーケンは打ち込めない。それほど丈夫なのだ。だから俺が持って来たのは特製のニカワだ。

 このニカワはあの倉庫にあった特殊素材の一つで、水分を吸収すると物凄い粘着力を発揮するという代物だ。普通の岸壁を登るにはまったくの無力なのだが、これを使えば永久素材の壁にも張り付くことができる。

 最初の一つは外殻手前ギリギリに設置する。薄くて小さな板にニカワを塗り、顔のマスクをずらして息を吹きかけると、壁に押し付けて接着する。板は引っ張ってもビクともしない。


 うん、行けそうだ。


 板につけてある金具にロープを通して命綱とする。

 荷物の大部分とはここでお別れだ。持っていくのは冒険日記と発熱ペン。携帯食料は1個だけ残してその場で全部食った。水は水筒一本だけ持ち、残りはできる限り飲んだ。最後はカンフル剤だ。これは体に大変によろしくない色々な成分を含んだアンプル剤で、一口飲めば疲れは吹き飛ぶというヤバさこの上ない代物だ。

 ぐっと一気に一本飲むと、ほどなく疲労も寒さも感じなくなった。体の奥底に火がついたような感じがする。

 それから元気を出した俺は外壁に乗り出した。

 足下遥かに緑と茶のまだら模様の大地が見えた。下腹がきゅんとして一瞬パニックになりかけたが、訓練を思い出して、すぐに落ち着いた。俺はこのために長い間訓練して来たのだ。

 風は恐ろしく強い。気を抜くと塔から引きはがされてロープで宙に浮かぶことになりそうだ。それだけは決してやってはいけないことだ。

 手の届く限り上にある永久素材の壁を、棒の先に巻き付けた布で表面を磨き、ロープを通した例の板を張り付ける。

 全体重をそれにかけ、体は横に寝かせた形で数歩上に向けて歩く。コツは塔の壁を地面だと思い込むことだ。

 ロープにすべての体重を預け、本能に逆らって壁から体を離せば離すほど、登攀は楽になる。

 一歩前進。そこでまた次の板を取り出し、ニカワを塗り、白い息を吹きかけて、上に張り付ける。

 無茶苦茶だ。ニカワだけが俺の命を支える。危うい綱渡りのような登攀劇。だがこれは今のところはうまく行っている。

 頭の後ろの光景は心の中から追い出した。

 一枚、また一枚と上へ進む。途中疲れると、ロープにぶら下がったまま休む。一度に生きているロープは三本。例え二本まで外れてもまだ最後の一本がある。それだけが心の支えだ。

 狙いはこの先にあるはずの外壁のメンテハッチだ。この天空の塔が活動していた時代にはそこから補修用のロボットが出入りをしていたはずだ。螺旋階段の中にあるメンテ用の分岐通路の位置からだいたいの場所は理解していた。もう少しでそこに届く。

 次の一枚を貼り、先に進む。残りの板は後二枚。伸ばした手で外壁を探る。メンテハッチはこの辺りにあるはず。

 無い。焦るな。俺。大丈夫だ。自分の考えを信じろ。

 次の一枚をさらに先に貼り、そこに移動する。周囲を触りまくり、メンテハッチの隙間を探す。

 ついに残りの板が一枚になってしまった。メンテハッチは上か、それとも左か。

 しばらく悩んだ末に最後の一枚を取り出した。息を吹きかけようとして代わりに血しぶきを吹き付けてしまった。

 ウイルスが暴れ始めている。ここで悩もうがどうしようが俺の命の終わりは容赦なく近づいている。

 左と決めて貼り付けた。素早く体重をかけてそちらに移動する。

 壁面を触る。伸ばした指先にかすかなひっかかりが感じ取れた。手袋越しだと確実ではないが何度も撫でている内に確信した。

 有難いことに壁面のギミックの構造はどれも共通化されている。手動操作パネルの上をハンマーで強く叩くと、ハンドルが飛び出した。

 寒風が吹きつける中で必死でハンドルを回すと、そこにあると気づかなかった扉が少しづつ開き始める。

 扉は少し遠い。手を伸ばしたが届かない。

 上を見る。どこまでも青空へと伸び上がる塔が目に入る。まるで空に落ちているような錯覚へと陥ってしまう。

 下を見る。緑と茶色のまだらの大地がどこまでも広がっている。遥か下に雲が流れている。

 その二つの深淵の境目が見渡す限りの地平線となって周囲に広がっている。


 これが生きている間に見る最後の景色だと覚悟した。

 何故か笑いがこみあげてきて、俺は息を殺して笑った。大声でも良かったが、それをやると血を吐くのではないかと恐れた。

 可笑しくない。なのに可笑しい。笑える状況ではない。でも笑ってしまう。

 人間とは案外こういう狂った生物なのだなと思うと、心が落ち着いた。狂った猿が大きな木を登る。ただ猿であるという理由から。それが人生の真理なのだと、ここに来て気づいた。


 命綱のロープを二本解除して、たった今貼り付けた最後の板に結び付けたロープだけにする。それにぶら下がったまま体を振り、手を伸ばす。ゆっくりとだ。いかに強力な接着力を誇るニカワだろうが限界はある。もしこの最後の板が剥がれたら、地面まで約八分間の落下が始まる。人生を楽しむには短いが、祈りを捧げるだけの時間は充分にあるはずだ。

 ぐんと反動をつけて体を振り出した。強風が背中を後押しする。

 伸ばした手が扉の隙間にかかるのと、背後でメリメリと音がするのが同時だった。ニカワと壁面の間に血しぶきが入ったお陰で接着力が低下したのか。

 死力を尽くして体を引き上げ、扉の中に転がり込む。後ろへと引き戻して来るロープのフックを叩いて体から外すと、それは風に引かれて扉の外に吸い込まれていった。

 しばらく荒い息をつき、ひたすら体力の回復を待つ。ときたま咳が出て、少しだけ周囲に血が飛び散った。この血の中にはブランガ・ウイルスが無数に含まれているのだろうなとぼんやり思った。俺の体の半分は今や死のウイルスでできている。

 ようやく起き上がれるようになったのでメンテハッチ内を奥へと進む。内部の扉を開くとそこにはまたいつもと変わらぬ螺旋階段が続いていた。損傷部位を越えたということだ。

 そのまま螺旋階段を登り、次のブロックに到達する。扉を開けると開いた隙間から風が勢いよく噴き出してくる。風が弱まるのを待って中に這いこみ、再び扉をロックする。

 二つほどさらにブロックを進むと、気圧が戻って来た。簡易酸素マスクの酸素も残り少なくなっていたのでほっとした。すでに高度は一万キロメートルに達している。ここより上で外殻の気密が破れていれば、酸素マスクのある無しに関わらずそこより先には進めなくなる。真空中では人間の体は沸騰するからだ。

 気力と体力を振り絞りさらに五つのブロックを進んだ。

 最後の携帯食を齧り、最後の水を飲む。気分が悪いのは高山病のせいなのか、それともウイルスのせいか。ここまでの経緯を日記に書き込み、ポケットに戻す。

 与圧はされているが温度だけはどうにもならない。寒さに震えながら俺は眠りについた。

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