第9話 わたしの名前は


<我の縁者に手を出すとは……その命、惜しくはないようだな>


 ユニコーン様は、いつもより長くなった額の一角を吸血鬼に向ける。その輝きを避けるように顎をのけぞらせた吸血鬼は、沈痛な面持ちで「滅相もございません」と言った。


「吾輩の無知をお許しください、神がつくりたもうた至高の存在たる神獣どの。まさか彼女が“純潔の乙女”とは存じ上げず、失礼をいたしました」


 どこかで聞いた気がする“純潔の乙女”という言葉を口にする時、吸血鬼はわたしを見た。その赤い目に思わず飛び上がると、ユニコーン様は不機嫌そうに首を振った。


<今後、この者……我の世話係に近づくことを禁ずる>

「勿論でございます、吾輩も一つしかない命は惜しいものですから」

<もし禁を破れば、命を惜しむ間もなく心臓を一突きにしてやる>


 唸るような低い声を聞いた瞬間、ユニコーン様の目が赤く煌めいたように見えた。

 その鋭い眼差しは、まるで催眠魔法を使っていた吸血鬼のようで。それまで余裕ぶった態度を崩さなかった吸血鬼も、額に一筋の汗を流した。


『恐ろしいな、両義性の神獣は』


 また、外界語だ。吸血鬼は隠れたひとり言のつもりかも知れないけど、言葉を変えてもわたしには分かってしまうのに。なんだか盗み聞きしているみたいで気分が悪い。

 それよりも“両義性”ってなんだっけ? 脳内で言葉の意味を探しはじめた思考が、ユニコーン様の高いいななきに遮られる。


<卑しい邪悪が、訳知り顔で我を語るな!>

「おお、なんと畏れ多い。これ以上のお怒りを買う前に、我輩は口を閉ざしましょう……またお目にかかりたいですね、お嬢さん」


 そう言って片目をつむった吸血鬼に、わたしは首を激しく左右に振る。蹄を踏み鳴らしたユニコーン様に「ね」と言われて、吸血鬼は闇へと溶けるように姿を消した。


<いつまで泣いておる、目が溶けてしまうぞ>


 そう言われた間にも、頰を流れた涙がポタポタと地面に落ちていく。止めなきゃと思うのに、壊れた蛇口みたいに少しずつ出てきてしまう。どうしちゃったんだろう。

 わたしの様子を見たユニコーン様はツカツカと歩み寄ってくる。額の一角はいつも通りの長さに戻っていて、丸い目は湖面のようにキラキラと輝いている。さっきまでの鋭い目が嘘みたいな眼差しで見つめられると、また涙があふれてきた。


「な、泣き止み方が……分からなくって」

<もう邪悪な者はいないのだから安心せよ>

「それが、安心したら、泣けてきちゃって」

<人間は難儀な生き物だ……仕方ない>


 ユニコーン様が顔を寄せてきて、伸ばした舌でわたしの頰をペロペロと舐める。柔らかい舌が涙を掬い取って、擦って赤くなった目元をくすぐった。


「ふ、ふふっ、くすぐったいですよ」

<うむ、ようやく泣き止んだな>


 満足そうにフンフンと鼻を鳴らすユニコーン様を見て、言いようのない気持ちが湧き起こった。

 

(なんで今まで、気づかなかったんだろう)


 こんなにまっすぐな好意を向けられていたのに。

 いつも一緒にいたいと伝えてくれて、嫌いなスイカも食べてくれて、わたしの頼みは聞いてくれて、わたしが怖がると悲しそうにして、わたしが泣き止んだら嬉しそうにする。

 そんなユニコーン様が、とても愛おしい。わたしはたてがみに手を伸ばして何度か撫でた。


<む、くすぐったいぞ、仕返しか?>


 小さく身体を震わせたユニコーン様が楽しげに言う。

 初めて触れたたてがみはフワフワした不思議な触感だった。そのまま手をすべらせて鼻すじも撫でてみると、高級な布地のようにつるつるしている。どこもかしこも気持ちいい。

 毎日ブラシ越しに触れるだけで、こうして撫でることさえもしてなかった。怖がられていると思われて当然だし、実際怖がっていたと思う。まるで高価な宝石には手袋をつけて触れるように、触れること自体を畏れていた。


「ごめんなさい」


 自然とこぼれ落ちた言葉に、ユニコーン様は不思議そうに首を傾げた。


<無事に済んだのだ、そう何度も謝ることではないだろう?>

「いえ、これまでのわたしの態度を……」

<そなたはよく仕えている、不満はない>

「でも、でも……」

<だから、そんな顔をするな>


 どんな顔をしているか、自分では分からない。けど、すごく汚い顔をしていると思う。目元は赤く腫れているはずだし、鼻水だって垂れていたはず。なにより、今も泣き出すのを我慢した顔がくしゃくしゃになっているはずだから。


「ごめんなさい、不細工な顔で……」

<何度も言わせるな、そなたは不細工ではない。そなたほど美しいかんばせを持つ者はこの世界にそうないだろう>

「でも、さっきは……」

<あの歪んだ表情は、不細工だった>


 歪んだ表情ってつくり笑顔のことかな? ちゃんと鏡の前で練習しているから綺麗に笑えてると思う。実際、周りからは「笑顔がかわいい」と言われてきたのに。

 不思議に思っていると、ユニコーン様がフンと鼻を鳴らした。

 

<我を騙そうなどと、姑息なことを考えるな>

 

 思わずギクリとする。なんで誤魔化そうとしたのがバレていたんだろう? 考えてみて、ふと思い当たる。もしかしてユニコーン様は相手の思考を読んでいるのかな。


<そなたが強く念じたことは、距離があっても明瞭に我へ届く。それ以外の瑣末さまつなことは、口に出さぬ限りはおぼろげに分かる程度だ>


 口に出していない疑問の答えが、考えた先から返ってくる。まさか精神感応テレパシーで心を読み取れるなんて思っていなかった。もはや念話レベルだ。


「それで、さっき『呼んだ』と……」

<そなたが強く念じた我の名は、この雑多で騒々しい場所でも鮮明に聞こえたぞ>


 意図せず既に謝罪済みだったらしい。なんだか盗聴されているような感じだけど、自分の気持ちを伝えるのが下手なわたしにはちょうどいいかも知れない。

 わがままに振り回されて疲れたけど実は少し楽しかったことや、嫌われたかもと思って悲しかったこと、そしてユニコーン様を好きってことは、口にしなくてもちゃんと伝わっているんだろうから。


<……そうだ、そなた>

「はい! なんでしょう?」

<今一度、我に名を教えよ>

「わたしの名前、ですか?」


 最初に名乗ったきり呼ばれないから、呼ぶ気がないんだと思っていたのに。ユニコーン様は首を振って、わたしを見上げる。


<我が故郷では、我らに接することを許される人間は女王のみ。我らが女王の名を呼ぶことはなく、女王も我らを呼び分けぬ。そもそも名を呼ぶ風習がないのだ>

「あ、なるほど! そうだったんですね」


 単純に名付けられていない若い個体なのかと思ってたけど、文化の違いだったんだ。


<この場所は言葉をかいする生き物が多過ぎる。人間には呼び名がないと不便だ>

「そうですね、では改めて……わたしはメイ=リンです」

<メイ=リン>

「なんですか?」

<呼んでみただけだ>


 なんだか恋愛小説に出てくる恋人たちみたい。小説を読んだ時は無意味なやり取りをする恋人たちを不思議に思っていたけど、なぜなのか理解できた気がする。名前を呼ぶのも、呼ばれるのも、すごく嬉しいんだ。


<これからもよろしく頼むぞ、メイ=リン>

「はい、こちらこそ!」

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