第8話 宵闇の悪魔


 薄暗い園内に、わたしの荒い呼吸と足音だけが響いている。

 運動はあんまり得意じゃないから、息はとっくに上がっている。脚がもつれそうになるけど、なんとか脚を動かして前へと進んでいた。


 この先にある広場を抜けて、森へ向かう順路を進めば飼育舎だ。勢いつけて広場へ飛び出したわたしは、なにかにぶつかって前のめりに倒れそうになる。


「あっ!?」

「おっと」


 声と共にぐっと引き寄せられて、腕に抱き止められていた。驚いて身体が固まってしまい、転びかけた状態で斜めになったまま目を瞬かせることしかできない。


「……おや、見ない顔ですね」


 喉の奥からするような甘く深い声がする。顔を上げたわたしは、息を飲んだ。

 蠟を塗ったような不思議な光沢の白い肌に、ゆるくウェーブをした艶のある黒髪が影をつくる。その髪の間から切れ長の赤い目がこちらを見ていた。


 めったに見ないような、見惚れてしまうほどの美男子だ。

 そんな見目麗しい美男子の腕が、腰に回されてわたしの全体重を支えてくれている。その事実に気付いて、顔がぶわっと熱くなった。


「あっ、す、すっ、すみません!」


 慌てて身を離そうとしたわたしの腕を、美男子が捕まえて強く引き寄せる。美男子の胸に飛び込む形になったわたしは、「ひゃあ」と小さな悲鳴を上げた。


(か、顔が近い~!)


 今までにない男性との至近距離。とても見つめ合うなんてできなくて、たまらず視線を逸らす。一方の美男子は、なにが楽しいのかわたしをじっと見つめている。


「君は、今まで一体どこに隠れていたのですか? こんな若くて美しいお嬢さんが、むさくるしい園内にいるなんて。妖精の森から出てきたフェアリーかと思いましたよ。どうです、このあと吾輩とお茶でも?」


 これは、もしかして「ナンパ」というやつでは!?

 異世界の恋愛小説では「お茶しない?」と聞くのがナンパの常套句だと書かれていた。人生初ナンパには少し心惹かれるけれど仕事中だし、なによりユニコーン様に会いたい。


「助けていただいたところ申し訳ないのですが、ちょっと急いでいまして……」


 わたしの腕から彼の手を外しつつ言うと、美男子は天を仰いで「なんてことだ!」と大げさに嘆いた。


「吾輩としたことが、どうやらお邪魔をしてしまったようですね」

「い、いえ、そんなことは! 本当にありがとうございました!」


 頭を下げて駆け出そうとすると、美男子は「しばしお待ちを」と言う。


「最後にもう一度、その青空のように麗しい目を吾輩に向けてくれませんか?」


 なんてロマンチックな言葉だろう……それも、こんな美男子に言われるなんて。

 不注意なわたしの転倒を防いでくれた人だ。お礼に視線を向けるなんて簡単なのに、こんな風に言われると少し恥ずかしい。わたしは遠慮がちに美男子の美しい顔にもう一度目を向けた。

 美男子の赤い目が優しく細められ、血の気の薄い唇がささやく。


『さあ、夕食ディネの時間だ』


 あれ、外界がいかい語だ。そう言いたかったのに、声を出すことができない。口が、喉が動かない。いや、身体のすべてを動かすことができない。


『こんな場所で晩餐ばんさんなんて味気ないが、久々の上物だから逃がすのは惜しいしな』


 やれやれとでも言いたげに肩をすくめながら、美男子が近づいてくる。後ずさりたいのに、身体が言うことを聞かない。目の前の美しい男の、怪しく煌めいた赤い目を見つめることしかできない。


(まさか、これって……催眠魔法?)


 異世界どうぶつ園には、たくさんの動物たちが飼育されている。

 その中には人型をしているものもいる。いずれも強力な魔力を持つ個体が多く、扱いは厳重に行われていた。特に、悪性魔法生物……略して「悪魔」と言われる種に関しては。


 異世界どうぶつ園にいる悪魔で、催眠が使える完全人型の悪魔は一体しかいない……吸血鬼ヴァンパイアだ。


(やってしまった……閉園後の園内に普通の人がいるはずないのに。魔法が使える吸血鬼相手に、一体どうしたら)


 わたしが小さい頃、来園者に催眠をかけて脱走した吸血鬼がいたことは知っている。その事件後は展示が取り止められていたので、吸血鬼の情報はよく知らない……ただ、悪性生物についての知識はある。


 悪性生物は他を害することを好み、基本的に他者に懐くことはない。悪性動物たちが協力関係を築くことがあっても、あくまで利害関係。彼らには「愛」という感情がない。そういう風に、神につくられたから。


『う~ん、素晴らしく甘美な香りだ。邪魔が入る前に、いただくとしよう』


 美しく微笑んだ吸血鬼が、一歩、また一歩と近づいてくる。

 口の端から覗く八重歯は、狼のように尖っていた。名前の通り、吸血鬼は人間の血を餌にする。あの鋭い牙で、わたしの肌を食い破ろうとしているんだろう。彼にとって、わたしはただの餌に過ぎないから。


(イヤ、イヤだよ、お母さん、助けて)


 吸血鬼はすでに、キスが出来そうなほど近い距離にいた。わたしに頬擦りをして、そのまま首筋にチュッと音を立てて口づける。そこは、動脈……首の一番太い血管がある部分だ。


(イヤだ、誰か、助けて……せめて、最期に)


 ユニコーン様と、話がしたかった。ごめんなさいって伝えて、わたしも悲しかったんだって伝えて。自分から歩み寄ってくれていたと、ちゃんと分かり合って仲良くなりたかった。


(こんな終わりなんて、嫌だよ)


 そう思った瞬間、パンッという破裂音と高らかないななきが響く。


 吸血鬼は顔色を変えて、警戒するように周囲を見回した。わたしも同じように周囲を見回そうとして、気が付く。身体が、思った通りに動く……催眠が解けてる!


『これは、一体……』


 吸血鬼はそう口走ってから、ハッと息を飲む。その視線の先を追って、わたしも言葉を失った。


 夕焼け色に染まっていたはずの空に、大きなオーロラが揺らめいていた。

 そのオーロラを背景にしてしまうような、美しい存在が闇を切り裂くように迫ってくる。雲のようなたてがみをたなびかせ、宵闇を照らすような虹色の光を放つ生き物。


 金色の蹄を輝かせて駆けてくるのは、ユニコーン様だ。


<我の世話係に、手を出すな!>


 一層高い声でいたユニコーン様は、両足を上げて吸血鬼に飛びかかる。慌てて身を翻した吸血鬼を深追いはせず、そのままこちらを振り返ってフンッと鼻を鳴らした。


<もっと早く我をばぬか、このれ者が>


 怒ったような厳しい言葉と、心配するような優しい目を向けられて、安心したわたしは「うあああぁ、ごめんなさいぃ~~!」と大声を上げて涙をこぼすことしかできなかった。

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