第04/23話 接触

 それからは、外の景色を、ぼんやり、と眺め始めた。瑠子と二人でいる時は、なぜだか、沈黙も苦にならなかった。他の人が相手では、こうはいかず、常に雑談のネタを探し続ける羽目になる。

 しばらくすると、バスが発車した。客は、虎義たち四人以外には、いなかった。

 十数秒後、前の席にいるウルフカット男が、突然、くるり、と振り返って、「おい」と声をかけてきた。

 虎義は、ゆるり、と目を動かして、視線を彼に向けた。思わず、露骨に警戒するような表情になったが、こればかりは仕方ないだろう。相手のほうは、にやにや、とした笑みを浮かべていた。

「あんた、臼場虎義だよな?」

「そうだが……」

 そう言ってから、否定しておけばよかったかな、と少し後悔した。虎義の勘が、これから厄介事が起きるぞ、と告げていた。瑠子は、彼に対し、心配そうな視線を向けてきていた。

「あんたに、頼みたいことがあってね。単刀直入に言う、嬰佐からスタンダード・ハンドレッドを貰う権利を、おれに譲ってくれ」

「……」

 言いたいことが、心の底から、ハンドルを全開にされた蛇口の水のごとく、噴出し始めた。どうして、おれの名前を知っているんだ。どうして、おれが嬰佐さんからスタンダード・ハンドレッドを貰うことを知っているんだ。どうして、その権利をあんたに譲らなくてはならないんだ。そもそも、あんた、誰なんだ。

 それらの疑問のうち、最後のものは、すぐに解決した。男性が、「おっと、自己紹介がまだだったな」と喋り始めたからだ。「おれの名前は、龍東。こいつの名前は、利根井とねいだ」

 そう言うと、彼は、隣に座っている女性に、右手人差し指を向けた。彼女も、後ろを振り返っていて、虎義に視線を遣ってきていた。

「本題に戻るぞ。なにも、タダで譲ってくれ、と言っているわけじゃない」虎義が台詞を発する前に、龍東が喋り始めた。「それと引き換えに、渡す物がある」利根井のほうを見た。「例の物を」

「わかった」

 そう返事をすると、利根井は、リュックサックのファスナーを、じーっ、と開けて、それの内部を、がさごそ、と探り始めた。そして、しばらくしてから、薄くて平べったい物体を取り出した。直方体、と表現するよりは、もはや、長方形、と表現したほうが、適切かもしれない。見た目の印象から推測するに、おそらくは、紙片類を収納するためのケースだろう。

「はい」

 利根井は、そのケースを龍東に差し出した。彼は、それを受け取ると、蓋を、ぱかっ、と開いた。右手に持ち、「これだ、渡す物は」と言いながら、内部を、虎義たちに見せてくる。

(いったい、何なんだよ……)そう胸内でぼやきながら、虎義は、ケースに視線を遣った。

 左右の瞼が全開になった。あんぐり、と開いた口から、「なあ……?!」という大きな声が漏れた。

 ケース内には、紙片類を収納するための、透明な仕切りが設けられていた。それの奥には、ドロップ・マルチのカードが入っていた。

(カードの右上あたりに付いている、あの、小さな折り目……間違いない、おれが持っていたやつだ……!)

 思わず、虎義は、それに向かって、ふらっ、と右手を伸ばした。即座に、龍東が、「おっと」と言って、ケースの蓋を、ぱたん、と閉め、手を引っ込めた。

「おれにスタンダード・ハンドレッドを譲ってくれたなら、このカードを返──渡してやる。言っておくが、盗んだわけじゃないぞ。この前、ひょんなことから、スリを捕まえてね。そいつを身体検査したら、あんたの財布が出てきたんだ」

 虎義は、ぎろりっ、と龍東を睨みつけた。彼は、相変わらず、小馬鹿にするような笑みを浮かべていた。

(ふざけやがって……そんなの、嘘に決まっている。本当は、あんたが、スリの類いを雇って、おれの財布を盗んだんだろう? ドロップ・マルチのカードを手に入れるために……ひいては、それと引き換えに、スタンダード・ハンドレッドを譲るよう、おれと交渉するために。

 どう調べたのかは、わからないが、こいつは、おれの名前や、おれが、嬰佐さんと、スタンダード・ハンドレッドを譲ってもらう、という約束を交わしていることを、知っている……なら、その過程で、おれが、ドロップ・マルチのカードをとても大切にしている、ということも知っただろう。だから、それと引き換えなら、スタンダード・ハンドレッドを渡してくれるはず、と考えたに違いない……)

「……で、どうなんだよ?」龍東は急かすように言った。「スタンダード・ハンドレッド、おれに譲ってくれるのか?

 もし、譲らない、って言うなら、このカードは返──渡すわけにはいかない。おれにとっちゃ、ただの紙切れだ。この場で、びりびりに破いたって、かまわない」げひひ、と笑った。「おっと、暴力はやめようぜ。紳士的に話をしようじゃないか。ま、あんたごときに暴力を振るわれたところで、やられるとは思えな──」

 があんっ、という音が辺りに鳴り響いた。虎義が、龍東たちのいる席の背を、右足で蹴りつけたのだ。

 龍東は、口を閉じたが、相変わらず、にやにや、と嫌らしく嗤っていた。利根井は、まるで何の興味も抱いていないかのように、ふあ、と小さく欠伸をしていた。瑠子は、何か考え事でもしているのか、上の空、という印象を受けるような表情をしていた。

 虎義は、ふ、と小さく息を吐いた。その後、軽い笑みが、顔に浮かび上がってきた。虚勢を張るため、意識的に作った表情ではない。自然に生じたものだ。反対に、龍東の顔から、笑みが消えた。

「遅かったな。財布を紛失した、と気づいた直後だったなら、あんたの提案、一も二もなく承諾しただろうが……すでに、気持ちの整理はついている。ドロップ・マルチのカードを取り戻せないことは、悲しいが……受け入れることにするよ。

 いや、むしろ、これで、ドロップ・マルチのカードについては、綺麗さっぱり諦められるな。今まで、事あるごとに、『警察や駅から、財布が見つかった、という連絡が、来ないだろうか』って、やきもきしていたからな。

 だいいち、おれが得ようとしているのは、あの、スタンダード・ハンドレッドだぞ? あれが、ひどく優秀かつ希少であることは、あんたも知っているだろ。それが入手できるって言うなら、ドロップ・マルチのカードくらい、犠牲にするさ。煮るなり焼くなり、煎るなり炊くなり、好きにしな」

 龍東は、五秒ほど沈黙してから、「いいんだな、本当に?」と言った。「ドロップ・マルチのカード、破り捨てても。脅しじゃないぞ?」

 虎義は、大袈裟に肩を竦めてみせた。「できれば、おれの見ていない所で、やってほしいもんだがね。だいいち、こんな所で紙屑を撒き散らしたら、迷惑がかかるだろ、バス会社の人に」

 龍東は、十秒ほど沈黙してから、苦々しげな表情を浮かべると、低い声で呟いた。「交渉、決裂か……」ケースから、ドロップ・マルチのカードを取り出すと、それの長辺を、左右の親指および人差し指で摘まんだ。「仕方ねえな」

 虎義は、顔を顰めると、カードから目を逸らした。耳を塞ごうとして、両手を動かし始める。

「待ってください」

 そんな、瑠子の声が聞こえてきた。虎義は、両手を止めると、彼女に目を向けた。

 龍東も、瑠子に視線を遣った。機嫌の悪さを隠そうともせずに、「何だ?」と言う。

「提案があります。お二人とも、ギャンブルをされては、いかがでしょう?」

 龍東が、「ギャン……ブル?」と、困惑した調子の声で呟いた。虎義は、瑠子に、「どういうことだ、瑠子?」と訊いた。

「つまりですね、お二人が、それぞれ、ものを賭けて、何らかの勝負を行うのです。虎義さんは、嬰佐さんからスタンダード・ハンドレッドを貰う権利を、龍東さんは、ドロップ・マルチのカードを賭けます」

 虎義は、数秒間、視線を宙に彷徨わせ、考えを巡らせてから、「なるほどな……」と呟いた。「いい案だ。それなら、おれが勝てば、スタンダード・ハンドレッドとドロップ・マルチのカード、両方を獲得できる。

 だが……」目を瑠子に向けた。「瑠子は、いいのか? ドロップ・マルチのカードを奪還したい、というのは、あくまで、おれ個人の事情だ。瑠子には、いっさい関係がない。そんな事情のために、スタンダード・ハンドレッドを入手し損ねるかもしれない、というリスクを負う羽目になるわけだが……」

「かまいません」そう即答して、彼女は、にこっ、と微笑んだ。「虎義さん、財布を紛失されて以降、ひどく落ち込まれていましたから。たしかに、スタンダード・ハンドレッドは、喉から手が出るほど欲しいですが、そんなことよりも、虎義さんが元気を取り戻されることのほうが、重要です」

「そうか……」虎義は、ぺこり、と頭を下げた。「ありがとう」

「いえいえ……」

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