カトレア
増田朋美
カトレア
その日は珍しく晴れて良い天気であったが、春にはよくある黄砂が大量に観測されて、外に洗濯物を干せない日であった。そうなると、電車が黄砂で動かないで止まるなどしたこともあったらしい。そのような感じでは、なかなか外へでるのも難しいなあと思われる日である。
その日、蘭はお客さんを送り出して、やれやれ今日も、仕事が終わったなと考えていると、
「彫たつ先生こんにちは。先生、あの、私を覚えていらっしゃいますか?私ですよ。宇佐美と申します。宇佐美亜紀子です。今日は、仕事で近くまで来たものですから、ついでに先生に会いたくなってこさせてもらいました。」
と、玄関先から声が聞こてきたのでびっくりする。
「宇佐美亜紀子さん?」
蘭がもう一度いうと、
「はい。先生のところにお世話になったときは、吉田亜紀子でお世話になっていました。先生、覚えていらっしゃいませんか?」
と、彼女は答えた。
「これですよ。先生に背中を預かって頂いて、カトレアを彫ってもらいました。それは先生に彫ってもらったから、思い出して頂いたと思うのですが?」
「ああ、カトレアで思い出しました。吉田亜紀子さんですね。この頃僕も、物忘れがひどくなりまして、もう年かな。まあ、いずれにしてもお入りください。黄砂が舞っているから、よく払ってくださいね。」
蘭がそう言うとがちゃんとドアが開いて、宇佐美亜紀子さん、旧姓吉田亜紀子さんが蘭の家にやってきた。風貌は大変派手な着物を着ていて、ちょっと太めの体格をしているが、たしかに蘭にも面影のある顔だった。
「やっと思い出していただけた。先生。宇佐美亜紀子こと、吉田亜紀子です。先生、これ、お土産です。どうぞ奥さんと飲んでください。」
そう言って彼女が差し出したのは、めったに手に入らない高級なワインだった。
「はあ、良いんですか。こんなものもらってしまって。」
蘭が思わずいうと、
「良いんです。先生にほっていただいてから、私の人生も変わったようなものです。だから、先生にはちゃんとお礼をしないといけないですからね。受け取ってください。」
と、亜紀子さんは明るく言った。
「そ、そうですか。それでも、こんな高級な赤ワイン、どこで手に入れたんですか?これは、一万円を超える代物ですよ。それを、あなたが手に入れることがどうしてできたのでしょうか?」
蘭が思わず聞くと、
「はい。先生、私やっと、自分のやりたいことができるようになりました。私、念願だった、オーディションに合格して、歌手になれたんです!」
亜紀子さんは、そういった。蘭は大いに驚いて、
「あ、そ、そうですか。そういうことなんですね。一体何のジャンルを歌っているのでしょう?その体格が良いところから判断すると、クラシックの歌手とか、そういうことですかね?」
と、聞いてみた。
「ええ。昔はポップス歌手を目指していましたが、ボイストレーナーの先生から、演歌に転生したらどうかと言われまして、演歌を歌うことになりました。演歌って、古いとか、年寄みたいとか、そう思われることが多いかもしれないけど、女の感情を歌い上げて、日本の文化とよくあっていて、すごく素敵なんですよ。そういうわけで私は、演歌歌手としてこれからも続けていきます。」
「そうですか。確かに体格もいいですし、声も太いので、演歌には向いているかもしれませんね。」
蘭がそう言うと、彼女はにこやかに笑った。
「ええ。それでね。今日は、仕事で沼津でコンサートをやったものですから、そういえば、彫たつ先生のお宅ってこちらにあったなと思ったのでこさせていただきました。要件というのは、ここからなんですが。」
と、彼女は話し始めた。
「実はですね。ミューズというところで、コンサートをしたいと思っているんです。富士市の近くに富士宮市って街があるでしょ。そこにあるホールだそうですね。」
というのであるが、蘭もそのホールが有ることは聞いたことがなかった。
「はあえーとそうですか。」
とりあえずそう言っておく。
「ええ。富士宮の猪之頭というところにあるホールなんですが。」
「猪之頭。それは、とても遠いところですねえ。そこで集客できるかどうか。そんな辺鄙なところよりも、富士宮の市民文化会館とか、そういうところでコンサートやられたらいかがです?」
蘭が思わずそう言うと、
「先生もやっぱりおんなじことを言うんですか。先生は私の味方をしてくれると思ってたのに。事務所の人も、そんなところでは客が来ないからだめだって言うことで、取り合ってくれないんです。私はどうしてもそこでコンサートしたいと思っているのに。」
と彼女は言った。
「そうですか。でも、コンサートということからには、やっぱり利益が無いと行けないでしょうから、辺鄙な場所では向かないのではないかなと思いますが、あなたのことだから、よほど強い意志があって、そこでコンサートされたいと思ったのでしょう。それは、あなたの意思に任せますよ。ぜひ、素敵な公演になるといいですね。」
そういう彼女に蘭はそう励ましてあげた。彼女はやっとそれで嬉しそうにしてくれたのである。
「もし、ミューズでコンサートをすることができたら、先生も来ていただけますか?他のお友達をご招待してもいいですよ。」
「ええ。それでは、ぜひ、いかせてもらおうかな。じゃあ、連絡先を教えて下さい。ホームページでもあればそれが一番手っ取り早いかな。そういう連絡先はありますか?」
蘭がメモ用紙を出してそう言うと、
「あいにく、ホームページは持っていませんが、フェイスブックで私のページがありますから、そこに掲載しています。フェイスブックで、宇佐美亜紀子と検索してください。」
と彼女はにこやかに答えた。
「わかりました。じゃあ、ミューズでコンサート、楽しみにしています。日付など決まったら、お知らせください。」
蘭がそう言うと、彼女は
「わかりました先生。必ず来てくださいね。先生、私のことをずっと見ていてくださいね。よろしくです。」
と、蘭に言った。そして、
「じゃあ、時間が来たので、これで失礼いたしますが、先生、今日は大事な約束です。もし私が、ミューズでコンサートをやることになったら、絶対来てくださいね。私の歌を聞いていただきたいです。そして、感想でも教えていただければ。お願いします!」
と蘭に頭を下げて、蘭の家を出ていった。なんだか、無理して言っているような気もしたが、蘭は、頑張れよという気持ちになって、彼女を見送った。
それから数日が経って。蘭が何気なく新聞をとって読んでみると、富士宮市で事件が起きたというニュースが載っていた。まあ地方新聞なので、さほど大きく書いてはいないけど、蘭は読んでみた。それによると、現場は、富士宮市のコミュニティーセンターであるミューズというところの近くにあった民家で、被害者はそこの住人であるという。そのあたり因果関係はまだわかっていないのであるが、ミューズという場所を建てるさい、反対した住民も多数いたそうだ。それを強引に押し切って、ミューズを建設したということで、蘭は、そのホールは、なかなか建てるのに苦労したんだなと思った。
まあ、この事件は、あまり関係ないことだで終わるのではないかなと蘭は思っていたが、また何日か経って蘭が新聞を開いてみると、
「富士宮市殺人事件、女に殺害疑惑。」
という見出しが載っていたので大いに驚く。それによると、女の名は、宇佐美亜紀子ということで、なんで報道は、こうやって、平気で報道してしまうのかなと蘭は思った。事件が解決して、ちゃんと犯人がわかったら、報道すればいいのに。こんなふうに疑惑の女と書かれてしまったら、宇佐美亜紀子さんも可哀想である。
「おーい蘭!」
と、玄関先で声がした。間違いなく声の主は華岡だった。蘭は先程新聞記事を読んだばかりだったので、自宅にやってきた華岡に、
「なんだよ華岡。この間の富士宮で起きた事件のことか?ああいうふうに、報道陣に、彼女の名をいきなり公開してしまうのは、まずいと思いますけどね。」
と言ってしまった。
「ああ。すまんすまん。あれは一種の賭けだったんだ。」
華岡は恥ずかしそうに言った。
「かけ?」
と蘭が言うと、
「そうだよ。だって、宇佐美亜紀子をこっちへ引っ張っても、一言も口を聞こうとしないんだ。だから、思い切って、新聞に報道させてだな。そうすれば、彼女も話してくれるかなと思ったんだ。」
と、華岡は答えた。
「ちょっとまってくれ。それではもう犯人というか、それは決まってしまったのだろうか?まずはじめに事件の概要からちゃんと説明してくれよ。新聞は、変なところしか報道しないから、よくわからないんだよ。」
と蘭が言うと、
「おうおうわかった。被害者は、富士宮市猪之頭に住んでいる、沢田璃。なんでも、猪之頭に長らく住んでいる旧家の娘さんだ。」
華岡は話し始めた。
「それで、宇佐美亜紀子さんが、彼女を殺害したと思われる動機は?」
蘭が聞くと、
「だから、俺たちは、沢田璃が、ミューズの建設に断固として反対していたということも聞き込みで知ったんだ。それで、ミューズでぜひコンサートを開きたいと言っていた、宇佐美亜紀子が、彼女と何かトラブルが合ってその挙げ句にと睨んでいるのだが、宇佐美亜紀子はどうしても何も言わないんだよ。」
と、華岡は答えた。
「はあ、何も言わないのか。それはなにか理由があるのかもしれないじゃないか。なんでも早く事件を解決してしまおうと思うから、事件が中途半端で終わってしまうんだよ。もう少し、その宇佐美亜紀子さんと、沢田璃さんの関係を調べてみたほうがいいのではないか?」
蘭は華岡に呆れた顔で言った。
「それでも、沢田璃が、ミューズの建設に反対していて、宇佐美亜紀子が、強引にミューズで歌いたいと主張していて、あの二人は大変仲が悪いことも、知られているぞ。そういうことだから、宇佐美亜紀子が、沢田璃を殺してしまっても、仕方ないんじゃないかな。ちなみに、凶器は、沢田璃の部屋にあった、花瓶であることもわかっている。ただ、指紋は出なかった。それは多分、犯人が拭き取ったものだろう。そして、これが決定的なんだが、宇佐美亜紀子が、沢田璃の家を訪れているのも、近所の人が目撃しているんだから、もう彼女で決まりだと俺たちは思うんだがね。ただ、本人が何も言わないので、、、。」
華岡は、髪の減ってきた頭をかじった。
「そうなのかもしれないけど、本人が黙っているということは、彼女がどうしてもいいたくないから黙っているんだろね。そこらへんをもっとよく調べる必要があるよ。華岡、そのあたり、もっと慎重にやるべきじゃないのかな?」
蘭がそう言うと、華岡は、そうだねえと言って小さくなった。
「それに、ミューズという施設は、一体どういう経緯で猪之頭に建てられたわけ?沢田璃さんと言う女性が、なぜそれを建てるのに反対していたんだよ。そのあたりまでちゃんとやらないと。」
「そんな事する必要があるのかな?」
蘭がそう言うと、華岡は小さい声で言った。
「俺達も、事件をたくさん抱えていて、いちいち、細かいところまで調べられないんだよ。もう次の事件も発生しているんだし。もう前の事件の犯人がわかってるんだから、いちいちそういうところまで調べられないよ。」
「そうかも知れないけど、犯人が逮捕されて、もうおしまいって形にしてしまうのは良くないんじゃないか。事件は、終わったのかもしれないけど、まだ僕らも知らなければならないところがあるような気がする。」
蘭は、華岡に言った。確かに警察は事件の犯人が決まってしまえば、それでもういいにしてしまうことが多いけど、それだけでは、行けないような気がするのはなぜだろう。
「少なくとも、僕が出した疑問には答えてないじゃないか。もう少し、事件を調べる必要があるんじゃないの?市民を守る警察だし、もっとしっかり、やる必要があるんじゃないのかな?」
「そうだけど、警察も全部を調べられるわけではないのでねえ。じゃあ俺、捜査会議あるんで、これで失礼するわ。」
そう言って華岡は、急いで椅子から立ち上がり、荷物をまとめて出ていってしまった。全く、こういうところは本当に、いい加減なんだなと思って、蘭は華岡が帰っていくのを見送った。
そういうことなら、と思った蘭は、翌日、猪之頭に行ってみることにした。猪之頭というと、富士宮駅からとても離れているところで、そこへ行くには一時間近くタクシーに乗らなければならない。介護タクシーとなると大変お金がかかってしまうことになるが、蘭は、とりあえず、運転手に、ミューズという施設に行ってみたいといった。運転手は、随分遠いところにいかれますねといったが、蘭はお金はちゃんと払うから、お願いと言った。運転手は、わかりましたと言って、タクシーを走らせた。富士宮市は、駅の周りは開けていて、大型ショッピングモールもある街であるが、そこから少し離れてしまうと田園風景の広がる田舎町である。ましてや猪之頭というところは、本当に周りは森ばかりのところだった。もしかしたら、くまでも出てきそうだと思われるところにミューズという建物があった。蘭は、そこで下ろしてもらった。
「これがミューズ、、、。」
と蘭は、その建物を見渡した。確かにコンサートホールのような作りなのだろうが、普通の民家を少し大きくしただけの建物である。
「もしよろしければホールに入ってみますか?」
タクシーの運転手に言われて蘭はハイと言った。多分、運転手は、蘭を興行主で、ここで興行をやりたくてここに来たんだと勘違いしているらしい。
蘭は、運転手に車椅子を押してもらってミューズの中に入った。運転手がこれがホールですと言ってくれて蘭を中に入れてくれた。ホールと言っても、八畳くらいの小さな部屋で、隅に小さなグランドピアノが置かれているだけだった。キャパシティはきっと30人も入らないだろう。
「こんな小さなホールを作って、ここで演奏会やっても、果たしてお客が来るんですかね?」
と蘭は思わず言ってしまった。
「ええ、初めて来る人はみなそういいますね。ですが、ここは近くにある施設がありましてね。そこに入ってる人たちが、よく来るんですよ。だから、それで賄っているんです。」
運転手がそう説明した。
「ある施設?それはどういうものでしょうか?」
蘭はそうきくと、
「ええ。ちょっと、人権団体から抗議があったようですが、未だに支持があって運営を続けている施設です。」
と運転手はいいたくなさそうなかおをしていった。
「はあ、と言いますと、なにか病気のある人が、隔離される施設ですかね?それとも孤児院とかそういうもの?それだったら、もう少し、開けたところに住まわせてあげるべきだと思うけど。」
蘭は昔のハンセン病などの隔離施設を思い出しながら言った。
「ええ、まあどっちも兼ねてますね。ちょっと出てみますか。すぐ歩いて行けるんですよ。」
運転手は蘭の車椅子を押して、ホールの外へでて、蘭をその近くにある、四角い建物まで連れて行った。
「一般の人は中には入れませんが、まあ、ここは心を病んでしまっていて、働けなくなった人を引き取っているところなんですよ。」
運転手が説明した。蘭は、そういう人なら、もっと街の方へ住まわせたほうが良いと言おうと思ったが、目の前に、紙飛行機が飛んできたのでそれは言えなかった。多分、精神がおかしくなって子供のようになってしまった人たちが、ここで収容されているのだろう。
「そういう人たちが、ミューズを利用しているんです。それだから、沢田璃さんはあの施設を建てるのに反対したんですよ。施設の外へ、患者さんを出すことになりますでしょ。それでは、ここの治安が悪くなるからって。」
「そうなんですか、、、。」
蘭は、驚きを隠せないでそう言ってしまった。
「それは、沢田璃さんだけではなく、他の住民も反対したのでしょうか?」
と、蘭が言うと、
「まあねえ。結構の人が反対していたみたいだよ。特にあの施設に隔離されている人は、近所の店で万引きをしたりしたこともあったらしいから。まあああいう人は、どこにも居場所がなくて、結局ああいうところに隔離されるしか生きる道がないけどさあ。まずは、理解しようなんて無理な話だもんね。」
と運転手は答えた。
「そうですか。それで、演歌歌手の、宇佐美亜紀子さんが、ここでコンサートを開催しようとしたんですか。」
「そうなんだよ。彼女は一生懸命、中に入っている人たちを外へ出してあげようと思っていたらしいが、でも、何をされるかわからないから、周りの人は反対しているということだ。まあ、こういう事は法律でも変わらない限り実行できないと思いますがね。」
蘭は、運転手に言われてそうだよなと思った。確かに、宇佐美亜紀子さんのしたことは、実行することは難しいと思う。コンサート開催に反対した沢田璃さんも、感情的になってかなりの言葉を言ったに違いなかった。それくらい、障害のある人達は、辛い存在であると思うのだ。
「わかりました。ありがとうございます。じゃあ、僕、帰りますから、富士宮駅まで送ってください。」
と、蘭は運転手に言った。運転手は、
「わかりましたよ。」
とだけ言って、どうせ蘭には世の中をどうすることもできないだろうと言う顔をして、蘭をタクシーに乗せた。こういうサービスを利用できるというのはある意味幸せなことだった。きっとあの施設にいる人達は、どんなに寂しくても、外へ行くことができないのだろう。そのために、ミューズというホールができたのかもしれない。だけど、蘭は、そこでコンサートを開催できるようになるのは遠い将来では無いのかなと思った。
タクシーは、蘭を、便利な電車やショッピングモールがある、富士宮の市街地に向かって走っていった。蘭は、森ばかりの猪之頭から、電車が走っている駅前に帰ってくることができるなんて、自分はなんて恵まれているのだろうと、涙をこぼした。
カトレア 増田朋美 @masubuchi4996
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます