第15話 海がいっぱいに満たされて

 反動で悠海ゆみがのけぞりかける。

 悠海はこらえた。

 こらえてから逆にばねをきかせる。絵美えみのほうに体が傾く。

 「はははへっはははっははっ、やだ、やだ絵美っ。やだっ、はああははははっは、へぇっ、はっはははっはははっはははっ!」

 玉のような笑いとともに、悠海は自分の胸を、絵美の骨張った背中へとすりつける。

 胸のふくらみはどんな気もちのよいクッションよりもさらに頑固なクッションになって、悠海と絵美の背が直接に触れるのをさまたげつづける。

 それが心地よい。

 「はははっ、きゃっけっきゃっはははっ、悠海って、悪い人ね、副会長さんのくせに」

 「ははははへあっはははっ、悪い人なら、どうするの?」

 「うんんふふっ、ほっぺ、ぺしん、って、してあげましょうか?」

 「いいよっ! やってみてっ! さああっ、やってみてよッ!」

 できないはずだ。悠海の顔はいま絵美の背中にあるのだから。絵美がどんなに器用でも、相手の顔を見ないで頬を「ぺしん」なんてできないだろう。

 「うんっ!」

 絵美はへんな気合いを入れた。

 ぺしん、ではなかった。

 いや、普通の、ぺしん、ではなかった。

 絵美は、いきなり、その細くてよく撓る体を反らせて、右手と左手を、自分の背中の後ろ、しかも悠海の背中の後ろに回した。

 悠海を自分の背中に背負うように。

 「うへっ?」

 逃げられない!

 絵美は、力いっぱい、悠海の背中の後ろを自分の背中に向けて押しつけた。

 顔がずり上がる。頬にちくちくと刺さる。絵美の髪の毛だ。

 悠海の長い髪の毛は、何の役にも立っていない。

 絵美の力は強かった。

 悠海は、唇まで、絵美の白いセーラー襟の後ろに押しつけられている。

 「うぉ、うっ、うぉっ、うーぉっ!」

 「いやだ、何するの?」と言おうとしたのかも知れない。でも唇が自由にならないのでことばにならない。

 そして、いま自分が何を言おうとしたか、もう思い出せない。

 絵美の白いセーラー襟がだれのよりも清潔なことに、やっと悠海は気づく。

 だがそれに感心しているどころではなかった。

 絵美は、悠海の背中に手を回し、その手に力をこめて手首をずり上げている。いま絵美の手首は悠海の胸の後ろにあった。

 その手の力で、悠海のふくらんだ胸が悠海の胸に押しつけられる!

 隔ててくれない!

 自分からくっつけたときには、絵美と自分を隔ててくれた。

 その胸のふくらみが、いまはその役目を果たさない。

 絵美が入ってくるのを防げない!

 その悠海のふくらんだ胸はいまは悠海のものではなくて絵美の道具だ。

 悠海の胸の表面が絵美の艶のない肌とその下の肩と背中の骨のかたちをきっちりコピーして、悠海のなかにどんどんと伝えてくるのだ。

 とても豊かに。

 「う、うーぉ、うっ」

 悠海は何も言えない。声は出てもことばにならない。

 自分が何を言うつもりなのか、最初からわからなくなっている。笑いたいのか、「やめて」と言いたいのか。

 絵美に何かを伝えたいのか。

 「あはっ、ひゃははっ、きゃははははっ!」

 絵美の勝利の笑いが、心地よく、耳からも体全体からも、悠海のなかに伝わってくる。

 悠海。

 ゆたかな海。

 そのゆたかな海が、いま絵美によっていっぱいに満たされて、表面に黄橙きだいだい色のちいさな波を立てているのを、悠海は感じていた。

 こんな幸せは、いままで感じたことがない。

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