第14話 この子は笑えるんだ

 いくら風でなびいて服に当たったといっても、他人の髪だ。それをつかんで束ねてたぐり寄せるなんて、やってはいけない。

 絵美えみはそれをやろうとしている。

 「な……」

 でも。

 いま「何?」ときく必要があるのだろうか? そんな思いがそのことばを引っこませている。

 絵美は、悠海ゆみの長い髪の先のほうを自分の右手と左手でぎゅっとつかんで房にすると、それを自分の顔に当てた。

 顔を洗って、顔を拭くときのように、下から上へ、念入りに。

 上から下へ、念入りに。

 また下から上へ、念入りに。

 絵美のつや消しの頬の上を、悠海の髪の毛が滑る。

 髪の毛自体に感覚がないことは、悠海はよく知っていた。

 けれども、悠海は何ででるよりも深く強く感じた。

 あの、絵美を覆っている、艶を消したような肌の感覚を。

 そして、それを通して見える、その肌の下にある絵美を。

 それは黒ではなかった。

 いや、黒だった。

 色とりどりのすべての色、その色を絵の具として混ぜ合わせたら、それは黒になる。

 絵美の瞳が映していたのは、そんないろとりどりのすべての色だ。

 だとしたら、悠海が少しぐらい自分の色を注いだところで、絵美が染まるはずもない。

 なんだ。

 だったら、注ぐのをためらったりしなくてよかったんだ。

 悠海は、いつの間にか胸いっぱいに吸いこんでいた息を、思い切り、でも、惜しむようにゆっくりゆっくりと、吐き出した。

 「きゃ、はっ、はっ、はっ、はっ……」

 その引きった、古い蝶番ちょうつがいのような高い音が何なのか、悠海には最初わからなかった。

 「ひっ、ひゃっ、はっ、きゃ、ひゃ、はっ、はっはっ、はっ……」

 「んふっふっふっふっふっふっ、んははっはっはっはっはっ、んははははへははははっ!」

 それは絵美の笑い声だった。

 そうだ。この子は笑えるんだ。

 驚き。

 でも、それは「この子が笑える」ことへの驚きから、すぐに姿を変えた。

 自分はこの子がこんなふうに笑うのを知っていた。そのことへの驚きだ。

 それを知ったのはいつだっただろう?

 決まっている。

 あの握手をしたとき。握手をしたときの、この子の手の硬さと熱が、それを伝えてくれたのだ。

 「あははははっ、はあっはっはっはっはは、あははほははほっ、はははっはっはははっ、ははははっははっ……」

 とびきりの、玉のような、表面のつやに傷のつけようもない玉のような笑いだと思う。

 そして、それは悠海ののどからあふれてきている。

 「やだ、絵美っ」

 悠海は自分の髪を両手でぎゅっと掴み返す。自分のほうに引っぱる。

 脇を締めて。綱引きをするときのように。

 髪の持ち主に髪を引っぱられては、どうにもしようがない。

 絵美の手から、髪がするっと抜けた。

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