第12話 絵美にはいらない苦労をさせられる

 その悠海ゆみの予想は、半分は当たっていた。

 半分ははずれた。

 絵美えみはトイレには行ったのかも知れない。しかし、いっしょに、筆洗ひっせんに水を入れてきたのだ。

 たしかに、ここで筆洗の水を換えるとしたら、トイレの水道に行くしかない。それはここで絵を描いていて何度もやったことだから、悠海にもわかる。

 そういえば、悠海の筆洗の水は、ずいぶん濁ってきていた。

 このあたりで換えたほうがいいかも知れない。

 絵美のまねをすることにした。

 すぐにやると、絵美がまねされたと思うかも知れないから、絵美が帰ってきてしばらく待つ。

 絵美の体に当たらないように、椅子を少したたみながら立つ。

 絵美にはいらない苦労をさせられると思う。

 絵美の髪の毛は肩のあたりだが、悠海は髪を背中のまんなかあたりまで伸ばしている。体を動かしたときに、この髪の毛が絵美の体に当たらないように気を使わないといけないのだ。

 体をかがめて筆洗にぽしゃっとまとめて筆を入れて、また立ち上がる。

 絵美のほうは見ないで、絵美の横を通り過ぎる。

 坂の下まで一本道を歩く。

 絵美の肩がどう動いているか見えたような気がさっきはしていた。けれども、自分が歩いてみると、胸が右へ行ったり左へ行ったり、それが腕に擦れるのがかすかにくすぐったく、かすかにもの憂い。

 左に曲がって坂にかかる。

 やはりだめだった。絵美のようにはいかない。あの登りにくい中途半端な石段につっかえつっかえ登っている。そんな感じだ。

 ふと、悠海は斜め下を見た。

 絵美だ。

 絵美はじっと自分を見ている。

 まじめな顔で。

 たぶん、あのよくった墨のような色の瞳で。

 なぜわたしを見る!

 悠海は脅すような顔をしたのだと思う。

 でも、ふっ、と、その顔がほどける。

 自分だってさっき絵美をこんなふうに見ていた。ずっと見ていた。

 絵美は振り向かなかった。自分は振り向いた。

 負けた。

 そう思うのが心地よいと、悠海は思った。

 そうだ。

 負けた。

 セーラー服の胸の風止めを越えて入ってくる風が強くなっている。

 高いところに上がったからだろうか。

 さっきの木漏れ日がおどっていたのも、この風のせいかな。

 いや、たしかにそうかも知れない。知れないが、でも、考えてみれば、悠海があそこで描き始めたときにはまだ木漏れ日はあんなに躍っていなかった。

 風はほんとうに強くなってきている。まだあの谷間までその風の強さが下りてきていないだけのことだ。

 早く戻らないと、画板が風に飛ばされてしまう。

 イーゼルは重いし、画板はきちんと押さえてあるから、そうかんたんには飛ばないと思うけど、もし飛ばされたらたいへんなことになる。

 いたずらな子に画用紙を破られるよりも、たいへんなことになる。

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