第9話 木漏れ日と感覚

 だが、期待したような展開は、何一つ起こらなかった。

 絵美えみは、悠海ゆみのぞいていることはわかっているはずなのだ。これだけ近寄られて気づかないなんてことはないだろう。

 だが、絵美は、悠海のほうは振り向かなかった。

 道の続いている遠くのほうを、心を奪われたようにじっと見ている。

 横から見ると、あのつやを消したような色の肌のまぶたを、少しだけ上と下から瞳の上にかけて。

 無理をしているのだろうか?

 でも、絵美の画用紙を見たとき、そんなことはどうでもよくなった。

 絵美の画用紙の上には、何も描かれていなかった!

 これまで授業に出ていなかったとは言っても、悠海がどんな色を塗ろうかと考え、パレットにさまざまな色を作っているだけの時間はあったのだ。

 悠海が気を散らしていたのと同じように、この絵美も、やっぱり気が散っていたのだろうか。

 頭の上で、ビルなら六階建てぐらいはありそうな木の葉が風に揺らいだ。

 違う。

 しばらく見ていると、その画用紙の上には、硬めの鉛筆で薄く何かが描いてあった。

 幾何きかがく模様?

 コンパスで描いたような円がいくつも画用紙には描いてあって、その円がところどころ欠けたり、ほかのとがった図形に侵蝕しんしょくされたりしている。

 少なくとも、いま写生している場所とは似てもにつかない図形の集合体らしい。

 それ以前に写生画なんかではなかった。

 そんなきれいな円をコンパスも使わずに鉛筆だけで描いてしまう能力には感服してあげてもいい。

 でも、何を描いているのだろう?

 マイペース女のことだ。もしかして、写生画の選考にわざと抽象画みたいなものを出して、鼻をあかすつもりなのかも知れない。

 でも、そんなものを描いているわりには、絵美はじっと遠くを見つめている。

 いま目を動かすと悠海と目が合うかも知れないから、見たくもないところに目をやって、動けずにいるのではあるまいな。

 いや、もしかすると、そうなの?

 こいつも自分を意識している?

 そう思うと、何かおもしろくなった。

 悠海は絵美の絵から目を離すのをやめて、もうしばらく見ていることにした。

 風に木の葉が揺らいでいる。

 木の葉の影が、いや、木漏れ日が……。

 その絵の上を撫でている。

 絵の上の図形に何かがぴったり一致し、また離れて行った。

 そう見えた。

 わかった!

 この子は木漏れ日のかたちを描いているのだ。

 画用紙に映る木漏れ日を。

 何?

 木漏れ日のかたちでも、写生は写生だって?

 ああ。

 どこまでひねくれたマイペース女なんだろう!

 悠海は自分がそう思うだろうと思った。

 でも、そんな思いを拒むのようなものが自分の心にかかっている。

 「ひねくれた、マイペース女」。

 そのことばが、「ひ、ね、く、れ、た、ま、い、ぺ……」と分解され、先にたどろうとするともやにまかれ、「マイペース女」ということばの最後までたどり着かない。

 なに?

 この感覚。

 座り直す。

 気がついたら、悠海は自分の絵に向かっていた。

 落ち着かない。

 だから、こんどはぬすみ見るように、絵美のほうを見る。

 振り向いてきても目が合わないように、軽く猫のように曲げた、細いけれどしなやかな背中を見る。

 何もなかった。

 ただ、あの色の濃い紺の制服の上に、まちがいなく、高い空にかぶさった木の葉が作る木漏れ日が、思ったより激しくおどっていた。

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