第8話 本来の色としての黒

 いたずらとか、手抜きとか、そんなことを考えてはいけなかった。

 そんな悠海ゆみの小さな気分が、なぜか絵美えみには伝わってしまう。

 やっぱり、ていねいに、塗っていこう。

 木はぜんぶ緑だけれど、種類によって緑の色が違う。ほかの葉の影かどうかによっても色が違う。いちばん高いところの葉は、向こうに少しだけ白く霞んだ青空を背景にしていて、明るいのに何か色が欠けているように見える。

 そういえば、前に空を青のかなり濃い透明絵の具で塗ったのだけれど、いまの空はそんな透明ではないようだ。不透明な白を重ねようか。

 いや、そんなことをすれば、小学生の絵みたいになってしまう。

 木の葉と木の枝を通して見える聖厳しょうごんいんの本堂の回廊かいろうの壁はまっ白に輝いて見えている。

 そんなはずはない。

 ところどころ黒くくすんでいた。

 塗り直す予算がないからか、それとも古びていたほうが風情があるわざとそうしているのか知らないけど。

 その壁を塗るのに少しだけレモン色をまぜた白色をパレットで作る。塗る。

 その勢いで、悠海はパレットのうえにいろんな色を作り始めた。

 黄緑に黄を混ぜたり、緑に黄土色を混ぜたり、茶色を混ぜたり。

 緑に青を混ぜたり。

 その混ぜ色をさらに混ぜてみたり。

 使えない色がいっぱいできた。

 だいだい色なんか、秋のこのあたりならばふさわしいかも知れないが、緑が勢いよく伸びていくいまの季節には使いどころがない。でも、そんな使えない色ができてくるのも何だか嬉しい。

 初夏だ。

 手を動かす以上に、そうやって気もちを動かしているからだろうか。

 長袖の、しかも紺色の濃い布地のセーラー服の下に、汗がにじんできている。

 胸の風止めを越えて微風が入ってくるのが、少しくすぐったくて心地いい。

 これで、こんなに息を詰めていなければならないのでなければ、と思って、悠海は思い出した。

 パレットの上にはいろんな色がある。

 でも、ない色がある。

 黒。

 濃く墨をったときのような黒色だ。

 黒絵の具は使わないように、と、悠海は教わってきた。黒く見えるものも、自然のものならば、それぞれ本来の色を持っている。絵の具では、色とりどりのいろいろな色が重なり合って黒ができる。だったら、色を重ねて、その本来の色を探りなさい。五大ごだい先生にはそう教えられた。

 そして、あの強制握手のときと同じように、すぐ近くにその色の瞳の持ち主はいる。

 この瞳こそ、色が重なり合ってできた黒ではなく、本来の色としての黒なんだと思う。

 そう思うと、その瞳の持ち主がいま何をしているか、どうしても見てみたくなった。

 目が合ってもいいと思った。

 そうしたら、何か話しかけてやろう。

 「どうして、あんたってそんないつもぶすっとしてるの?」、とか。

 「そんな顔してて、ブスって言われない?」、とか。

 「生活楽しい、それで?」、とか。

 いや、だめだ。

 大築おおつき悠海がそんなことを言ってはいけない。

 そうだ。

 「どうして、ここで描く気になったわけ?」

 それがいいだろう。

 それで、あの墨の瞳の子がむすっと向こうを向いたりしたら、おもしろい。

 緊張のあまり、ぺしん、と自分の頬をなぐってきたら?

 それも、なんだかおもしろそうな展開だ。

 それに、この子はここでどんな絵を描いているのだろう?

 悠海は肩のすぐ後ろから絵美の描いている絵をのぞきこんだ。

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