第6話 濃く濃く入れた紅茶のような色

 悠海ゆみ絵美えみはことばも交わさなかった。

 悠海から話しかけるのもいやだったし、もちろん絵美から話しかけても来ない。

 話もせず、目線も交わさないということでは空気のようなものなのだけれど、残念ながら絵美は空気ではなかった。

 気まずい。

 気まずいぶん、集中力が切れる。

 絵美が体を動かすたびに、その体の動きに目が行く。

 悠海はセーラー襟の肩の後ろからしか見ていない。顔はまったく見えず、無表情なおかっぱ髪しか見えないのだが、その肩や背中や髪の毛が動くたびに、悠海の集中力は切れた。

 しかも、注意していないと体が触れるほど近いのだ。絵を描いている向きが違うので、悠海が絵筆を握っている右手を動かすたびに、その右手のひじのところが絵美の背中に触れそうになる。

 絵美の体に触れないようにずっと気をつけていなければいけない。しかも、絵美のほうはそんなことはちっとも気にしていないようで、よく体を動かす。なおさら気をつけていなければいけない。

 「存在感のない」絵美が体を動かすと、それだけ気になるから始末が悪い。

 外で、風で木がざわざわしていたりするので、絵美の息づかいまでわからずにすむのが、まだよかったかも知れない。

 好きでそんな近くに座ったわけではない。

 悠海は自分の絵を見た。

 湿地の地面のほうは色を塗っていた。空ももう塗っていた。

 あと、塗っていないのは、木の葉の部分だけだ。

 木というのは、どうしてこんなに複雑に絵に描きにくくできているのだろう、と思う。形もそうだし、色もそうだ。

 どうしよう?

 木の葉なんて緑に決まっているのだから、ぜんぶ緑と深緑と黄緑で適当にうねうねとくねらせて描いて、ごまかしてしまおうか。

 たしかそういううねうねした線の油絵で、杉か何かを描いた、有名な画家の絵が、教科書に載っていたはずだ。

 そんないたずらのようなことを考えると、悠海の頬はゆるみ、息が漏れる。

 胸のあたりの張りつめた感じがなくなったと思ったとき、黒いものが動いたように思った。

 反射的に目を上げる。

 絵美が振り向いていた。

 濃くった墨をたっぷりたたえたような目で、悠海の目を見ている。

 はっきりと。

 絵美の頬はつやを消したようにくすんでいる。

 絵美は悠海の目から目を離さない。

 あの目には、悠海の、濃く濃く入れた紅茶のような色の瞳が映っているのだろうか?

 悠海には、わからない。

 だから居心地が悪い。

 にらみ合うのではなく、でもぷいっと目をそむけるのでもなく。

 注意深く、デリケートに、絵美から目をらす。

 逸らし終わってため息をつこうとして、悠海はそれも抑えた。

 気を抜いてちょっと笑いたい気分になっただけで絵美はこっちを振り向いてきた。ため息なんかついたら、絵美にはこちらの気もちがまるわかりになってしまう。

 ああ、疲れる。

 いちど解けた胸の横の緊張を取り戻して、悠海は自分の画用紙に向かった。

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